バレエ「眠れる森の美女」で悪の妖精はカラボス、善の精はリラです(Lilasはフランス語、英語ではLilac)
カラボスとは悪意(Maleficent)ある妖精です。マレフィセントな存在なので、名は体を表したのがディズニー映画のマレフィセント(Maleficent)。これはサタンという名前がそもそも妨害するという意味のStnというヘブライ語から来ているのと似ています。
カラボス(バレエ)=マレフィセント(ディズニー)、です。
邪悪さや悪魔は何時の世でも魅惑的です(Iwaki Ballet Companyの眠れる森の美女のカラボスは空前のカッコよさでしたw)。
悪には悪となる理由があり、思想があるというのが、ハンナ・アーレント以前の悪に対する捉え方でした(アーレントは悪を「凡庸」「無思想」「想像力の貧困」とつなげて考えました)。
ディズニー映画のマレフィセントは、その悪の側から眠れる森の美女を見る物語りでした(マレフィセントをアンジーが好演しました。アンジェリナ・ジョリーと言えば、このブログの本当に最初のほうの記事がアンジェリナ・ジョリーのSALTの紹介でした)
その主題歌がバレエで言う花ワルです。花のワルツとか花輪のワルツ、村人のワルツなどと呼ばれるものです。まあ「花ワル」ですね。
映画を観終わって、エンドロールと共にこれが流れると、かなり泣けます。
英語版は後述のように、もともとのディズニー・アニメの「眠れる森の美女」のOnce upon a dreamをラナ・デル・レイが暗く深く唄います。
オーロラが王子を夢見るという歌詞なのに、歌い方と歌い手が変わるとこれほど怖く聞こえるものかと思います。悪夢のように聞こえます。
しかし、日本語版は映画のテーマをダイレクトに歌っています(歌詞は久石譲さんの娘さんで、あのナウシカの「ランランララランランラン」を歌った麻衣さん)。
*歌っているのは、なんと大竹しのぶさん。耳に残るメロディーです。
ちょっと関係ないかもしれませんが、この歌は「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」というフィリプマロウの有名なセリフを思い出します。
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”Wikipediaより
この曲のオリジナルはもちろんチャイコフスキーです。
ディズニー・アニメでは王子様を夢見るオーロラの視点で描かれています。そして、その夢見た白馬の王子さまとの出会いが訪れます。
このままをラナ・デル・レイが意味深く歌ったのがマレフィセントの主題歌です。
ちなみに、ラナ・デル・レイはこちら。
*同じ文章、同じ歌詞でも文脈が異なると、全く異なって聞こえますよね。
アナ雪(Frozen)と言い、マレフィセントと言い、いわゆる”王子様”をディズニーは否定しているようですし、白馬の王子さまを夢見るというのはCrying for the moonな感じのある馬鹿げた感じがします。
しかし、僕はいまだにこの物語は重要だと思います。
夢見ない限りは、目の前に王子様があらわれても認識できないからです。
自分は王子様から選ばれるという確信がある乙女の前に、王子様は現れます。
多くの人は王子様から求婚されても、「どうせ、私なんて」と卑下して、チャンスを足で踏みつぶして、噛み付いてきます(「豚に真珠」)
ある階級というか集団の人にとって、シンデレラストーリーは普通の物語りです。チャンスはゴロゴロ転がっているし、与えられるチャンスはふんだんに与えているのですが、受け取る人はわずかです。
お釈迦様は膨大な量の蜘蛛の糸を蓮池の合間から下ろしているのですが、99%はカンダタとなりチャンスを生かすことなく地獄へ堕ちていきます(蜘蛛の糸)。厳密には地獄へいることを選択します。
いつもながら、話が飛ぶのですが、僕はこの「蜘蛛の糸」という物語りが好きです。
こんな冒頭です(青空文庫から転載しています。カンダタだけカタカナ表記にしています)
ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
仏教においては神はいませんが、お釈迦様はそれに近い存在として扱われています。そのお釈迦様が「独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました」というのはいいですね。
創世記でも神様は歩いています。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた(創世記3:8)
サタンも歩きます(「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」ヨブ記1:7)
アインシュタインとゲーデルも歩きました。
*アインシュタインとゲーデルの散歩w
お釈迦様ことゴータマシッダールタ(ブッダ)も歩くために歩いたと言われます。
話を蜘蛛の糸に戻すと、
カンダタは極悪人ですが、一度だけ善行を行います。蜘蛛を踏みつぶさなかったのです。
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
一寸の虫にも五分の魂です。はなはだ仏教的です。
それに対して、その善行だけゆえに地獄から救われようとしたのがお釈迦様です。
御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下(おろ)しなさいました。
チャンスは唐突に降ってきます。
そして、カンダタはそのチャンスに対して、こうわめきます。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
この小さな物語に成功法則のすべてがあるような気がします(言い過ぎかっ)。
カンダタを妨害した(サタン)のは、カンダタ自身のエゴです。エゴというとなんか嫌なので、むしろ考え方の癖というべきものです。
世界はゼロサムゲームだから、奪ったものが勝ちという、最近で言えばピケティのような考え方です。現代のロビン・フッドです。トリクルダウンと同じくらい、夢物語を語るだけでお金になるのですから、やめられない職業です。エリートというのは。資本に課税したいなら、社会主義革命を言えばいいのにって思います。ねずみ小僧もそうですが、ロビン・フッドは自分の犯罪を糊塗するためだけに、義賊を気取ります。
まあ、それはともかく、王子様を夢見る(Once upon a dream)というのは重要です。夢見ていないと、目の前に現れたときに気づかないからです。チャンスも同じです。
白馬の王子さまを夢見るという歌であったのを、マレフィセントの立場から歌い直したのがマレフィセントの主題歌(日本語版)です。
再掲します!
善と悪は糾える縄の如しです。
マレフィセント MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+Mov.../ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
¥4,320
Amazon.co.jp
↧
「♬いつか夢で」出会ったのは白馬の王子さま?それとも悪魔?
↧