裏の理論というのを煎じ詰めて言うならば、たとえばルビンの壺を見て、壺しか見えないというのが、表の理論です。壺を丁寧に観察し、その形状を味わうのが表の理論です。
それに対して、図と地をひっくり返すことができて、向き合う男女の顔を観ることができれば、それが、強いて言えば裏の理論です。
(たとえば、丁寧に壺を観察すると、わずかに左右非対称であることに気づきます。その違和感を掘っていくと、気づいたら男女の顔がふとした拍子に見えるかもしれません。このふとした拍子に見える「男女の顔」らしきものを「ビジョン」と言います)
男女の顔が見える人は壺も見えます。
でも、男女の顔も見えます。
同じものを見ていて、完全に情報は共有されているけれども(そうとも限りませんが)、視点が違うだけで見えてくる世界が全く違うというのが「まといのば」の言う「裏の理論」です。
だからこそ、視点を変えることにフォーカスをするといういつもの話に収束します。
フォーカスを変えることにフォーカスします。
フォーカスを変えるというのは、シンプルに言えばパラダイムシフトです。
もちろん厳密な意味でのパラダイムシフトとは違い、これは個人に起きることですが、しかし個人が集まって集団を作るのですから、あながち間違いとも言えないのかもしれません。
パラダイムシフトとは分かりやすい事例で言えば、天動説から地動説に変わるコペルニクス的転回のことです。
昨日のセミナーでもエヴェレストとウィトゲンシュタインの言葉を引きました。
裏の理論が正しいとしたら、世界はどう見えるのか、世界はどう動くのか、その理論はどう描かれるのかと言われれば、表の理論と何ら変わりがないというのが回答です。ただし見えてくる世界、理解できるレベルなどは段違いに変わります。
その上で裏の理論への「機会の通り道」として2つの言葉を紹介しました。
エレベーターの中に傘を忘れてきてしまったようだ。(中略)傘は私をなくして、とても心配しているに違いない。(エリック・サティ)
モシ心ノ理趣ヲ覓(もと)ムレバ、汝ガ心ノ中ニ有リ。別人ノ心ノ中ニ覓(もと)ムルヲ用イザレ(空海)
(お前は理趣釈教などというが、お前の三密がすなわち理趣ではないか。同じ意味で、私の三密も釈教なのである。私がお前のからだを得ることができないように、お前も私の身体を得ることができない。繰り返すが、お前は理趣釈教という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ)
(司馬遼太郎「空海の風景」)
その上で、我々が押さえておくべきはやはりリベラルアーツです。
たとえば「計算」という言葉を一つ取っても、文脈が必要であり、哲学が必要です。
クリプキはウィトゲンシュタインを引いてこう語りました。
規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから 2014年01月17日 テーマ:寺子屋
(引用開始)
『探求』の第二〇一節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、「我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』(クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」p.Ⅱ)
(引用終了)
このウィトゲンシュタインのパラドックスについてしっかり学びたいのであれば、是非クリプキの著書を読むなり、寺子屋に挑戦してください。
ただ、このブログでも学びたいのであれば、上のブログのリンクをクリックして読んでみてください。
もしくは、ここから以下長々と引用します。
***
(引用開始)
例えば、「68+57」は、私がかつて全く行ったことのない計算である、としよう。(略)
さて私はこの計算をし、そして勿論、「125」という答えを得る。(略)
ここで私は、突飛な懐疑論者に出会った、と仮定しよう。(略)彼の示唆するところによると、おそらく私が過去において「プラス」というタームを用いたとき、「68+57」に対して私が意図したであろう答えは「5」であったに違いない!のである。(略)
私が考えた事例の全ては、57より小さな数の間の加法なのである。それゆえたぶん、私は過去において「プラス」と「+」を、私が「クワス(quus)」と呼び、「◯」によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたのかもしれないのである。その関数は、
もし、x,y<57 ならば、 x◯y=x+y
そうでなければ x◯y=5
によって定義される。誰が一体、これは私が以前に「+」によって意味していた関数ではない、と言うのだろう。(pp.13-14)
(引用終了)
*ちなみにこのクワス算の記号は◯の中に+が書いてあります!その記号が出せなかったので、◯で代わりとさせてもらっています。ご了承ください。
この議論はきわめて明解なのですが、クリプキらしくLSDだの何だの脱線があるために、逆に難解になっています。
ポイントはある加法を考えるときに、かつてその計算をしたことが無いとするという点です。
我々は有限の存在であり、そして有限回しか計算をしたことがないので、やったことのない計算というのは無限に存在します。その1つを選んで、計算しようとします。それが68+57であったということです。そしてその有限回の計算はすげて57より小さい数の間の加法だったとするということです。
そこでもう一人の登場人物が出てきます。彼の名は「突飛な懐疑論者」です。名前ではないのかもしれませんが、名前としておきましょう。
その「突飛な懐疑論者」くんが言うには、68+57は『私が過去において「プラス」というタームを用いたとき、「68+57」に対して私が意図したであろう答えは「5」であったに違いない!』そうです。
これは奇想天外な意見です。
しかし、「突飛な懐疑論者」くんはこの事実を「私」に説得しようとします。
そして私が過去においてプラスと「+」を、クワスという関数を表すために用いていた可能性があるということを認めさせます。その関数のルールは以下のとおりです。
(引用開始)
その関数は、
もし、x,y<57 ならば、 x◯y=x+y
そうでなければ x◯y=5
によって定義される
(引用終了)
これまでは57より小さい数の加法しかしていなかったので、その先のことはたまたま知らなかったということです。そしてこれは厳密に整合的です。この主張に問題はありません。
もちろんこのクワス算の関数が正しいとはクリプキは考えていません。
そうではなくポイントは以下のとおりです。
(引用開始)
基本的な点は、こうである。通常私は、「68+57」という計算をするときは、単に暗黒の中で正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)をするのでない、と思っている。私は、私が前もって私自身に与えた指示に従うのであり、その指示が、この新しい事例において、私は125と言うべきである、ということを一意的に決定するのである。しからばその指示とは何であるか。仮定により私は、この事例においては「125」と言うべきである、という事を私自身に明示的に語ったことは、決してないのである。そしてまた、私はただ単に「私が常にして来た事と同じ事をなし」さえすればよいのだ、と言う事もーーもしその引用符の中で言われている事が「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」という事を意味するのだとすればーー不可能である。(p.18)
(引用終了)
はじめて行う計算である「68+57」をするときは、我々は暗黒の中で正当化されていない跳躍をするということです。
我々はつい自分が前もって私自身に与えた指示に従う(規則に従う)と考えがちですが、その規則(指示)は一度も68+57=125ということを明示的に示していないということです。もし示さなくてはいけないとしたら、ありとあらゆる数の無限の組み合わせの加法が事前に規則に組み込まれていないといけません。そんなことは不可能です。
すなわちこれほど単純な加法(足し算)ということを取って、厳密に考えても「私がこれまで与えた事例によって示されている規則に従って計算する」ことはできないということです。
68+57であればナンセンスに感じます(ナンセンスではなく、クワス算をきちんと定義すれば成立しますが)。
しかし哲学を哲学だけで理解するのではなく、科学やパラダイムシフトの知見を想定して考えてみましょう。
すると我々がこのクワス算の例で思い出すのは、真空の光速度との兼ね合いです。
物体は真空の光速度である秒速30万kmを超えないということを我々は知っています。
するといわゆる速度の和(加算)が光速度付近ではおかしくなってきます。
たとえば光速度に近い物体の速度の和を考えましょう。
たとえば光速度の9割近いロケットの中で、光速度の9割近い速度でボールを投げたら、ガリレイ変換で言えば、真空の光速度の1.8倍の速度でボールは飛ぶはずです(あくまでも例です)。
しかしこれはもちろん実験的にも(マイケルソン・モーリーの実験)、理論的にも(マックスウエルの電磁方程式)間違っています。どんな情報も真空の光の速度を越せません。
x+y<c
ということです。
しかし、明らかに単純な計算でx+y>cだったとしても、その速度はx+y>cとはなりません。
秒速27万kmで飛ぶロケットの中で、秒速27万kmでボールを投げたら、ガリレイ変換で言えば(我々の一般の感覚で言えば)、27+27=54万kmです。しかし実際は30万kmを超えることはありません。相対論的な効果が働きます。
もっとシンプルな例で言えば、光の速度に何を足しても(加算しても)、その和は一定です。
c+x=c
です。
これはクワス算を思い出させます。
我々人類はこの100年前までは、光速度近くでの加算などはしたことがなく、しかしガリレイ変換によって(もしくはニュートン力学によって)速度の和は単純な加算であるという規則があるとずっと考えてきました。しかし、その規則は行為の仕方を決定できず、我々はこの100年は相対論的効果を計算にいれること、すなわちガリレイ変換ではなくローレンツ変換という加法を採用することをいま受け入れ始めています。
すなわちクワス算の例というのは、そして「ウィトゲンシュタインのパラドックス」が指し示すインスタンスの1つはパラダイムシフトと考えると理解が早いのではないかと(哲学専門の人からは怒られそうですが)考えます。
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クワス算はもちろん一見すると荒唐無稽な哲学者らしい意味のない設定に見えます。
でも、この世界のEdgeに立って、人類の誰もがやったことのない計算を暗黒の中で正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)として日々、行っているComputer(というか人間)にとっては、このようなクワス算に出会うことが日常であり、そしてそれは必然的なのです。
裏の理論とは表の理論を丁寧にトレースする中で、些細な違和感に気づき、結果として気づいたら向こう側に行くしかないものなのです。