「言葉は自分を縛るのだから、表現をホワイト化していったとしても、中身までそれに伴ってホワイト化していきませんか?」
というご質問を頂いたわけではないのですが、先回りして回答しておきます。
何の話かと言えば、ホワイト革命の話です。
ホワイト革命セミナーにおいて、ホワイト化するのは表現だけであって(見た目も含めた表現です)、心身まで漂白してしまうと、夢や希望も漂白する結果になるという話をしました。
でも、暴力表現を控え、性的な表現を控え、昭和的なギャクを控えたら、心身というか、中身も漂白されるのではないかという疑問です。
これは非常に真っ当な話ですし、その可能性ももちろんあります。
実際にまず感性は徐々に漂白されていき、ホワイト社会に適応していきます。
乱暴な言葉遣いや、乱暴なボディランゲージ、乱暴なあり方にだんだん不愉快になっている自分に気付くでしょう。なぜ、以前はこれが楽しかったのだろうと不思議に思うかもしれません。
露骨な性的な表現に眉をひそめるようになります(思ったよりこのブラックな世界ではグロテスクな表現に満ち満ちています)。
都会に出てきた人間が、地元に戻ると、ホッとすると共に、なんで「この人達はこんなゆっくりとした時間の中に生きているのだろう」と思うのに似ています。もはや、そのスピード感では遅すぎて、生きていけないのです。感性が以前とは違ってしまうのです。IQと似ていて、一度、禁断の果実を食べてしまうと、もう楽園には戻れません。我々はホワイト社会に適応すると、ブラックな社会のジョークに笑えなくなるのです。
自分の表現をホワイト化していくと、どんどん心身は漂白されていく感じがして、そして感性が最初に適応していきます。言い争いなどが、不毛で無意味に見えたり、暴力表現が強すぎると感じたり、露骨な表現に眉をひそめたくなります。
表現のホワイト化とは何かと言えば、それは新しい言語を覚えるようなものです。
日本語ネイティブが英語を学習するようなものです。
新しい言語を覚えると、新しい人格が作られます。それをEnglish Brain(英語脳)と言ったりします。日本語脳と別な脳の部位に(正確には情報空間に)、英語脳を新しく作ります。そしてその脳を使って、英語を話します。日本語で考えないといけないときは、日本語脳と英語脳のLUBの空間をつくり、そこを経由します。LUBというのは、Least Upper Boundの略で、2つの異なる概念を包摂する最も抽象度の低い概念のことです。たとえば、「犬と猫のLUBは哺乳類」という風に使います。「哺乳類と魚類のLUBは脊椎動物」です。
日本語脳と英語脳のLUBの空間をつくり、そこを介します。そこはおそらくは非言語の世界であり、イメージの世界として認識されます。そして、我々はそもそも日本語を話すときですら、その空間を通って、話しています。そう思っていても、実際には日本語でべったり考えている人は多くないのです。
で、表現のホワイト化とは、新しい言語を覚える作業と似ています。
これまで日本語の中でもブラック語で自分は話していたけど、これをホワイト語に翻訳すると、どうなるのだろうという作業をひたすらにしていくことです。
ブラック語とか、ブラックというのは、ホワイト化やホワイトに対する対概念として、勝手に造語しています。
で、残念ながら、ホワイト語のまだ教科書はないので、自分で探していくしかありません。白黒辞典(ホワイト語とブラック語の対照表辞典)もまだありません(あっても、すぐに漂白されそう)。
モデルもまだほとんどいません。
(余談ながら、僕らの大好きな人々はブラック語を駆使する人が多いです。具体的な名前を挙げようと思ったのですが、ホワイト語の世界では、そのような行為そのものが漂白されるべきと考えるので、具体的な名前を挙げません。そんなことをわざわざ書く僕もなかなかブラックに染まりすぎです)。
で、何が言いたいかと言えば、いくら英語を一生懸命に勉強しても、English Nativeになることはほぼ不可能に近いくらいに難しいことです。同様にホワイト語を一生懸命に勉強しても、たしかに感覚は変わり、人格もスイッチするでしょうが、それでも心身が完全に染まって(いや漂白されて)、ネイティブになることは、原理的にありません。
ですので、心配せずに、僕等はひたすらに表現のホワイト化につとめましょう!!
ちなみに、ブラック語が通じる仲間とだけ、本音をSkinに話すという立て付けでの話というのは蜜の味ですが、毒が回っています。少しずつ避けていくのが無難です。
社会的洗脳による時代の変化が明瞭に来る前に、先にホワイト社会に過剰適応しておきましょう。放射能騒ぎと同じく、急速に過去になる新しくもない感染症がなぜこれほどまでも市民権を得たかと言えば、ホワイト社会を先取りしていたからです。科学の軽視、理論の軽視、ロジックの軽視、事実の軽視、雰囲気重視で、自分の気分重視、感覚の偏重、そして全世界で同時多発的に発狂していることなども、なかなかに時代を先取りしていると思います。
それはさておきホワイト語に適応していきましょう。
ちなみに、そこでのキーワードはリスペクトです。
そして逆に、真っ先に漂白されるのがディスリスペクトです。いわゆるディスリです。
厄介なのは、このディスリがブラック社会ではCoolとされていたという事実です。
アマゾンレビューじゃないですが、偉そうに上から批判することが賢いと思われるという幻想がブラック社会にはあったのです。大事なことなので、もう一度言いますが、「偉そうに上から批判することが賢いと思われるという幻想があったのです。
(この話はあまりに重要なので、次のフェロモン気功セミナーでしっかりやります。というのも、この誤解が深刻であることと、そして短期的にはディスリ戦略は大成功するからです。だからその魅力から逃れられないのです)
(この話を横展開していくと、マッサージサロンにおける「強もみ」問題にぶち当たります。同じ構造が隠れています。今多くの人が強もみを求めます。これはブラック社会の残滓のようなもので、七面鳥のように、突然にそのブームが終わるのですが、でもそれまでは稼げるし、うまくいくのです。むしろホワイト化を先取りして、Anatomy2.0やFasciaなどを使うと、お客さんは目の前からいなくなるのです。それでも、ホワイト化しなくてはいけません。現在に適応しつつ)。
パラダイムはシフトします。パラダイム・シフトすると、これまで良いとされてきたことが全部悪になるのです。「鬼畜米英」という標語(スローガン)が「Give me a chocholate」という現実になるのと同じです(←この事例も漂白すべきかも)。
自分は国のため、同胞のために、命をかけて正義のために戦ったのに、帰還したら、そこは別のパラレルワールドだったのです。メタバースならぬマルチバースで全く別な宇宙に来てしまった感じです。
何の話かと言えば(僕にとっては祖父の話ですが)、映画『ランボー』の話です。
ランボーというのは、あの詩人のランボーではなく、ベトナム帰還兵のランボーです。
アメリカの英雄として、世界の英雄として、戦地に赴き、命がけで戦ったのに、帰還した空港で見も知らぬ人から「赤ん坊殺し」とののしられるのです。
国の英雄のはずが、犯罪者扱いです。
(引用開始)
ディヴィッド・マレルの処女出版小説『一人だけの軍隊』の映画化作品であり、社会から孤立したベトナム帰還兵ランボーと、たまたま街を訪れた流れ者というだけでランボーを排除しようとした保安官との戦いや、ランボー自身の独白を通して、「ベトナム戦争によって負ったアメリカの傷」が描かれている。
(引用終了)Wikipedia
ネタバレになるので、以下は本編を見た人が見てください!
この映画の肝であるラストシーンです。
警察に囲まれ、そしてベトナム戦争の時のグリーンベレーの上官に諭されているシーンです。
この叫びこそが、戦争肯定社会から、戦後の社会へパラダイムシフトに挟まれたものの悲鳴です。
戦争社会(2つの世界大戦) → ポスト世界大戦(リベラルでグローバルな世界)
このシフトの叫びが理解できると、
ポスト世界大戦 → ホワイト社会
において、我々がどう苦しむのかを予習できます。予習しましょう。そして苦しみましょう。