「豚に真珠」という言葉をこのブログでどれほど使っているのだろうかと思って、検索をかけたら、その数の多さに驚かされました。
一番最初は10年前ですね。この記事が最初ではないのですが、同日に何本もアップされていて、その一つがこれです。
で、「豚に真珠」というと、「俺は豚ではない」という反論が来たり、侮辱しているという反論が来るので、その方々に対して誤解なきように、イエスの言葉であることをいつも明示しています。
「豚」という言葉に侮辱の意図は無いですし、犬に侮蔑の意図はありません。ただ単にあるコンテキストの中で「豚」であり、「犬」であるというだけです。
(引用開始)
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(引用終了)(マタイ7:6)
ここでまだ読解問題を出すとしたら、、、、
「Q.1 構造的に考えて、豚と対応している動物は何でしょう?」という感じです。
次は、「Q.2 なぜこの文章で「また」が使われているのでしょう?もしくは何が並置されているのでしょう」。
そして、「Q.3 『彼らは』の『彼ら』とは誰(何)を指しますか?」、続いて「Q.4 『それらを』とあるが、ここで言う『それら』とは何を指していますか?』となるでしょう。
そして、『O.5「あなたがた」とは誰でしょう?』。
この問題を丁寧に解いたら、イエス様がおっしゃっていることが、少し見えてきます。
そしたら脊髄反射的に「私は豚じゃない!」などと部屋の中で携帯の画面を観ながら叫ぶことも無くなるのです(笑)。
問題が探しにくいというクレームが来そうなので(「問題を解こうと思っているのに、どこまでが問題で、どこまでが地の文がわかりにくい」)、問題文というか課題だけを抜き書きします。
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(引用終了)(マタイ7:6)
Q.1 構造的に考えて、ここで「豚」と対応している動物は何でしょう?
Q.2 なぜこの文章で「また」が使われているのでしょう?もしくは何が並置されているのでしょう?
Q.3 3文目に『彼らは』とありますが、『彼ら』とは誰(何)を指しますか?
Q.4 3文目に『それらを』とあるが、ここで言う『それら』とは何を指していますか?
O.5「あなたがた」とは誰のことでしょう?
これがきちんと解ければ、ルー・タイスの側にいる人であれば(with me)、むしろ「そうか私は豚だった」とスコトーマが外れるのかもしれません。これはスコトーマが外れる体験であって、もしくはスコトーマが外れる契機なのであって、決して侮辱とか、「エフィカシーが下がった」とか(笑)、そういう体験ではありえないのです。
そして、きちんと読解できたら、次のフェイズへ移動できます。
たとえば、タレブのこんなセリフが理解できるようになります。
「初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。
もらったときには何なのか知らなかったわけだから。(ナシーム・ニコラス・タレブ「強さと脆さ」p.161)」
c.f.初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。(タレブ) 2015年05月09日
ここで問題です。
Q.1 「初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。」とタレブは言いますが、何が「難しい」のですか?そして、なぜ「難しい」のですか?
↑ソクラテスが「おお!!1つの質問で2つの回答を迫るなんて、なんと欲張りな」と言いそうなので、2つに分けます。
Q.1 「初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。」とタレブは言いますが、何が「難しい」のですか?
Q.2 「初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。」とタレブは言いますが、それはなぜ「難しい」のですか?(あなたの感じたことは聞いていないので、文章を構造的に理解して、そこから見えてくるものを、タレブの文章に沿って答えなさい)
で、これが読めるようになると、「なるほど、(このコンテキストにおいて)自分が豚であるという情報は非常にありがたいものであることが分かった」となるのです。
余談ながら、フロイトは夢をシンボルや象徴としてだけではなく、聖典であると見做したそうです。
c.f.人間と記号表現の関係において、少しでも変更をほどこせば、、歴史の全行程が変わってしまう(ラカン) 2015年04月20日
そこからは豊穣な意味が引き出せるが、しかし読解には数千年かかるような謎として観たのでしょう。
フロイトはミシュナーやゲマラーの伝統の末裔でもあります。
我々はすべてのテクストをタルムードと考え、ミシュナーするべきなのです(←日本語おかしい)。
アウグスティヌスは隣の子の遊んでいる声から、神の声を聞きました。神はそのような形で姿を表されることを知っていたからです。
何の話か見当もつかないという方のために、簡単な解説をします。
アウグスティヌスというのはキリスト教の最大の教父です。
神様はアウグスティヌスの過去の過ちについて、いじめぬきます。
過去の過ちというのは、「下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事」のことです。
そこにはマニ教への浮気もありました。
c.f.「下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた」アウグスティヌス 2014年11月15日
(以下の解説はこの記事のパクリです↑)
わたしはかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた。
アウグスティヌス「告白」第2巻第1章(岩波文庫p.44)
しかし、そこから立ち直ったはずなのに、神様はしつこく許してくれません。
「主よ、あなたはいつまでなのか。主よ、いつまでなのか、あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないでください」(アウグスティヌス「告白」岩波文庫 上巻p.280)
妬む神(出エジプト記20:5)だけあって、なかなかしぶとく怒っています。
アウグスティヌスは号泣しながら、声を張り上げて言います。
「もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまでないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりではないのですか」。
切ないですね。
やはり読書は音読に限りますね。
声を張り上げてよみたい文字ですね!(「声に出したい日本語」のもじりです!「声に出したい日本語」で有名になった方は高岡先生の弟子です。そして高岡先生の手法を紹介しています)
で、そろそろ十分に反省したかな、と神様は判断して、蜘蛛の糸を垂らします。
でも、その蜘蛛の糸はバカには見えない意図(糸)なのです。
あ、間違えました。
豚と犬には見えない(神の)意図なのです。
豚と犬は馬と鹿の区別がつかないのです。世界の見方が雑なのです。
すると、どうであろう、隣の家から、男の子か女の子かは知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、「取って読め、取って読め」と何度も繰り返していた。わたしはすぐに顔色をかえて、子供が何かの遊戯に、このようなことを歌うのだろうかと一生懸命に考えてみた。しかしそのような歌はどこでも聞いた覚えはなかった。それでわたしは溢れ出る涙を抑えて立ち上がり、わたしの聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。
美しいコンバージョンの瞬間です。
アウグスティヌスと共に、我々も「溢れ出る涙を抑えて立ち上がり」ましょう。
ちなみに、コンバージョンを回心と訳すのは、仏教用語の回心(えしん)の流用、もしくは誤用であるとWikipediaには書かれています。
続けて引用すると、Wikipediaには、こうあります。
(引用開始)
旧約聖書では「シューブ」(「向きを変える」「帰る」の意味。)と「ナハーム」(悲しみの感情を伴って悔い改める)というヘブル語が用いられる。新約聖書では「エピストゥレフォー」(方向転換して戻る)と「metanoeo メタノエオー」(悔い改める)というギリシア語が用いられる。名詞形が μετάνοια,metanoia「悔い改め」である。(引用終了)
そう、ここで「Water!!」となる人は少なくないでしょう(いや、嘘です。多くの人は緑色の文字は読めないのです。いや、読まないのですw)。
いや、イエスに言わせれば、ここでWaterとヘレン・ケラーのように叫ぶ人は幸いである、、、でしょう(←むしろわかりにくい)。
言い換えれば、なぜ、ルー・タイスは
But if you stop and reflect back, you may say with me,
(しかし、将来振り返ったときは、私のように「…」と言っているかもしれません)
と言ったのでしょうか。
stopもreflect backもネガティブな感じがあります。
たとえば、T理論には「過去は関係ない」というものがあります。立ち止まり、過去を振り返ることは我々には不要です。なぜは過去は関係ないからです。
たしかにルー・タイスの『アファメーション』はT理論以前に書かれた本です。
しかし、それはそれほど問題ではないのです。
なぜ、ルーはここで「 if you stop and reflect back」と言っているのでしょう、、、、。
これは仮定法ではないのです(主節を見れば)。でも条件節であることは明白です。
(という非常にエキサイティングで楽しいBootCampを今月からスタートします!)
話を戻します。
フロイトやアウグスティヌスのように、取るに足らないようなものに神の声を観るべき、聴くべきということです。
神という言葉にアレルギー反応が出てしまう副腎疲労な我々としては、超情報場であっても、高い抽象度でもOKです。もちろんT理論にアレルギー反応が出てしまう(たくさんいるのは知っていますw)副腎疲労な方であれば、人生の秘訣とか、宇宙のカラクリ?などの言葉に置き換えても良いかもしれません。
「まといのば」に熱心に通っている方ならば、その細部にランダムネスという神が宿ることが分かるかもしれません。
ですから、言語能力は宇宙を読み解くには不可避なのです。身体を読み解くにも不可避なのです。
逆向きに言えば、ほんのわずかでも言語能力を手にすることができたら(豚であることが自覚できたら)、圧倒的な能力を手にすることができるのです。そしてその「わずか」を繰り返してくことで、着実に成長できることも約束されています。人生が突然にイージーモードになります(多分w)。いや、本当にそうです。やるべきことがシンプルだからです。
というわけで、メンター養成BootCampお楽しみに!!!(受講資格はシン・メンター養成スクール受講生のみです)
そして、今月開催のシン・アディトレマスタースクールもお楽しみに!!!!(こちらもメンター生かセミナー受講生のみが受講対象です)。
p.s. 今月の「まといのば講座」は、、、、ルー・タイスを取り上げます。
というか、『アファメーション』を取り上げる予定です。
というか、「誰も知らないルー・タイス」の続編で、「シン・誰も知らないルー・タイス」を開催予定です。
どういう講座かと言えば、「アファメーションをゼロベースで読もう!」という講座です
全く読んだことが無い人が対象です。
何度も繰り返し読んだけど、読解がゼロではなく、マイナスだったという人も対象です。
ルー・タイスの言っていることはシンプルなのです。でも、読みにくいのも事実です。
なぜなら、その読みにくさのジャングルを通過したものにしか、お宝が現れないからです(多分)。