漫画「鬼滅の刃」の最終巻が発刊して、鬼滅ロスがスタートです(笑)
圧倒的なスピード感で描かれ、そのまま疾走していった感じです。
HUNTER×HUNTER(ハンターハンター)もワンピースも進撃の巨人も終わっていないのに、鬼滅だけが終わります。
まさに「後のものが先になり」です(違うか)。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう(マタイ20:16)
壮大な物語が裏にあるにも関わらず、総集編的な圧縮さで次々と展開していき、加速しながら最終話まで突っ走った印象です。
これは非常に現代的だと思います。
全てが加速する世界です。
世界について言えば、加速しているところに、もっと加速させる事象が起こりました。
それが今回の感染症パニックです。
セミナーでも幾度か話題にしましたが、世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)の創設者が「グレイト・リセット」という概念を提唱しています。
その著作「グレイト・リセット」でも描かれていますが、、、本来は大したことのないパンデミックである感染症が、非線形的な影響のおかげで、大惨事につながっています(クラウス・シュワブいわく新型コロナはホワイトスワンながら、その影響がブラック・スワンだと)。
世界の脆弱性を突いたということでしょう(そしてそれは感染症ではなくても起こったでしょうし)。
実はこの脆弱性について、ずいぶん以前に中村元先生が言及されています(最近のセミナーでも言及しましたね。TENETセミナーか何かで)。かつてであれば失敗した王国はつぶれれば良いのですが、今や世界がつながっているために、潰せなくなっており、それがもっと巨大なリスクとなるという話です。世界そのものがToo big to fail(大きすぎて潰せない)になっているのです。
(逆に企業の倒産は良いことです。人材もアイディアも含めたリソースが市場に再循環します)
そしてこのコロナ禍によって、世界は大きな岐路に立っているので、ダボス会議としてはこれを奇貨としてグレート・リセットしようという巨大な計画というか構想があります。
で、これは一方で、ポスト・コロナについてのエマニュエル・トッドの考えを思わせます。トッドのポストコロナの予想は「何も変わらないが、物事は加速し、悪化する」というものでした(エマニュエル・トッド『大分断』p.8)。
鬼滅の刃の鬼たち(というか無惨様は)鬼殺隊がいてもいなくても(いや、彼らのおかげですが)、これだけ加速した社会では生き残れなかったかもしれません。諸行無常にあらがう鬼たちの棲家(すみか)は加速する社会にはなかったかもしれません。
変化しないということは猛烈なエネルギーを使います(それを人肉で贖うという設定なのでしょうが)。
*敵役である無惨様が表紙の22巻。こんなに美しくかっこよく悪役を描いてしまうのもまた鬼滅らしさですね。
面白いことにグレイト・リセットも、エマニュエル・トッドも同じ結論に至っています。いや、同じ方法論というべきかもしれません。
その方法論とは、多くの人が覚醒して協力すれば、社会は圧倒的に良くなる、と。
(方向性は違う気がしますが、方法論は同じです)
で、ついでに追記してしまうと、台湾の天才IT相と言われるオードリータンも同様の意見です。
これって鬼滅の刃のテーマそのものじゃないかって思う人も多いかと思います(笑)
鬼たちは協力することができないような恐怖政治の中にいます。そもそもリーダーの無惨様自体がそういう人だからです。恐怖の中で長く暮らしているからです。
一方で鬼殺隊は、国家や一般大衆には許容されていないものの、仲間内では比較的、協力的です。
力を合わせることや、後進を育てることには(比較的)積極的です。
不老不死である鬼に対して人間はあまりに脆く儚いので、そしてそれは鍛え上げた鬼殺隊についてもそう言えるので、自分の不滅や生き残りよりも、ミッションの遂行や物語の継続を優先するマインドセットになっています。鬼と対峙するからこそ、その回復力や不滅性に対して、鬼殺隊は老成していきます。もちろん死が隣り合わせということも成長を加速させます。我々の言うVitalな環境ということです。
老いることも死ぬことも
人間という儚(はかな)い生き物の美しさだ。
鬼の視点からすれば、この物言いは単なる強がりのようにも見えますが、実際は違うでしょう。
というのも、脆弱性を集団にすることで、人間という生き物は共同体自身を反脆弱にすることに成功しているからです(だから逆に不死は醜いのです)。
(また「人間という」という限定に違和感を覚えるかもしれませんが、生き物すべてが煉獄さんの言う意味での「儚い」わけではありません。死と性は進化の中での発明であり、姿を変えず(壊れない限り)永遠の生命を持つ生き物もいます)
主人公たちのリーダーであるお館(やかた)様はシンプルに「永遠というのは人の想いだ」と言います。
(僕ら流に翻訳すれば「永遠というのは情報だ」ということになると思います。想いもまた情報です。もう少し具体化するならば、物語ということになるでしょう。でも不滅を強調するならば「情報」が無難です、、、って、無粋な解釈ですね)
永遠というのは人の想いだ
人の想いこそが永遠であり
不滅なんだよ
とは言え、鬼殺隊にイニシエーションがしっかりあるように、共同体と言っても烏合の衆であれば、単にパニックになって自滅して終わりです。ニーチェの言うように、個人にあっては稀だが、狂気は集団では良くあることだからです。
c.f.狂気は個人にあっては稀有なものである。だが集団、党派、国家、時代にあっては通例である(ニーチェ) 2019年03月01日
そのときに構成員が持つある種の心構えというかそういうものは(心構えというよりは、諦観に近いと思うのですが)、主人公の炭治郎の言葉に集約されている気がします。
近道なんてなかった
足掻くしかない
と。
(「幾何学に王道なし」ですねw)
ずっと考えていました
だけどそんな都合のいい方法はない
近道なんてなかった
足掻くしかない
今の自分ができる精一杯で前に進む
どんなに苦しくても悔しくても
主人公の炭治郎はそのキャラクターから人に好かれ、様々なチャンスと知識を良いタイミングで得て、進化していきます。
その意味ではたくさんのチート技をゲットしているような印象ですが、彼の視点から見ると「そんな都合のいい方法はない。近道なんてなかった。足掻くしかない」のです。
そして、それが分かった時に、圧倒的に成長できるようになります(多分w)。
壁なり、絶望なり、不可能性に幾度となくぶつかることでできていくブリーフシステムです。
(明確に「壁」と言っているシーンもありますね。それでも続けていくと力はついていくというのもまた確信として出てきます。絶望とじわじわと進む成長はペアなのです)。
悔しいなぁ
何か一つできるようになっても
またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ
物理空間に比べて、情報空間というのは羽が生えたように軽やかに移動できます。
でも、それは(無限列車のような)悪夢の中かもしれません。ヘーゲルの言う妄想の中かもしれません。
物理の重さと変わらなさ具合を受け入れたときに、本当に情報空間でも自由になれます( ー`дー´)キリッ
(ということで、身体を鍛えましょうw、頭と共に。そして限界ギリギリで戦いましょう、足掻きましょう。一緒に!)