仮に脱洗脳と呼んでいる気功技術というか、テクニック群には大きく3つあります。
ちなみに脱洗脳という言い方はおどろおどろしいので、少しずつ切り替えていきたいと思っているのですが、結局一番しっくり来ているので、そのまま使っています。
(かつては「アンカー切り」とか、「トリガーの付け替え」とか、単に「浄化」や「浄霊」などに言い換えようとしてきました)
ここでの脱洗脳の定義は余分な情報を取り除くという程度のものです。
ガチな脱洗脳となると、本当に大変ですが、小技程度のものでも十分に結果が出ますし、というか圧倒的な結果が出ます。
この小技程度のカジュアルなものでも習得した人が増えてきたら、ガチの脱洗脳に関してもガンガンやっていきたいと思っています(そして早く引き継ぎたいと思っています。後継者求む、です。マジで)。
余計な情報がアルゴリズムの邪魔をします。
邪魔というのは、、、うーん、なんというか、その人のポテンシャルがそのまま活きれば、才能が発揮できるのに、という感じです。
才能の開花を邪魔しているのが、余計な情報です。
それが誰かに言われた余計な一言だったり、アドバイスだったり、善意の助言だったりするわけです(コーチングでは十把一絡げにドリームキラーと呼びます。ただ最大のドリームキラーは大概の場合は自分です)。
c.f.かつて天才だった俺たちへ 神童だったあなたへ 似たような形に整えられて見る影もない 2020年08月27日
蔦がひどくからまって、大きな才能の歯車を動くのを阻害しているイメージです。
歯車の間に蔦がはさまって動かなくなっているのです。
*ニジンスキー「薔薇の精」
情報というのを僕らは静的なものとして認識しがちですが、情報は動き続けています。だから生命に見えるのです。
一度流出した情報がWeb空間を拡散していくように(そして消すことができないように)、情報は自己保存と変異と増殖を繰り返しながら広がっていきます。
その本質は生命のカラクリというよりは、エントロピーだと僕は思っています。
ただ、それだと見えにくいので、時間を止めて観るのです(これが平たく言えば止観です。アルゴリズムを止めて観るのです)。
縁起ネットワークも最初は蜘蛛の巣状に広がる網の目として理解しますが、そのスタティックな像に慣れたら、すぐに動かしていきましょう!
たとえば、同じAという言葉でも、文脈によって全く変わってきます。
犬という言葉が愛犬を指すこともあれば、国家権力の手下を指す蔑称として使われることもあるかもしれません。
一瞬にして、言葉の定義域が変わるのです。いや、その言葉が包摂する部分集合が変わるのです。
これを網の目として考えるならば、網の目の中心の場所がグワンと移動するイメージです。
逆にこの感覚がわかっていると、なぜ我々が「お笑い」や喜劇を好きなのかが分かります。これは価値の転倒であり、縁起ネットワークの移動だからです。
だから笑いましょう!!
(「薔薇の名前」のネタバレでもありますね。笑いましょう、神すらも)
余談ながら、最近の歌舞伎では、出演者もマスクをするという状況ながら、演者たちがコロナを笑い飛ばします。コロナを軽視しているわけでは毛頭なく、しかし状況を洒脱に笑い飛ばすのです。
「傾く」と言われる歌舞伎ならではの演出かと思います。
そう言えば、セネカも「笑え」と言います(笑)
いや、本当に。
だからこそ、われわれは、ものの見方を変えなければならない。人々が持つ欠点すべてを、忌まわしいものとは思わずに、笑うべきものと思うようにするのだ。
この一節はきわめて重要です。
「忌まわしいとは思わずに、笑うべきものと思う」です。
そこに続く章句も、まるでアランのようです。
だから、われわれは、なにごとも軽く見るようにし、心を楽にして、ものごとに耐えるべきなのである。人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。
続きます(^o^)
さらにいえば、人類全体にとっても、それを嘆く人よりも、笑う人のほうが、ありがたい存在だといえる。笑う人は、人類に明るい希望のかけらを残してくれる。
(略)
総合的に見れば、涙を抑えない人よりも、笑いを抑えない人のほうが、心の大きな人だといえる。じっさい、笑う人は、心の最も優しい感情に動かされている。だから、人生の様々な出来事のなにひとつとして、重大だとも、深刻だとも、悲惨だとも思わないのである。
これがセネカです。
(なんかいろいろと誤解が多いようですがw、これがセネカです。
老人に向かって、「お前の人生で成し遂げたことはなにもない」と突きつける鬼畜な面もセネカですw
いや、あのひどい言い草もまたお笑いなのかもと思えてきます)
セネカはヘラクレイトスではなく、デモクリトスを見習えと言います。
ちなみに2人の違いはシンプルです。
ヘラクレイトスは泣き、デモクリトスは笑います。
「ヘラクレイトスは群衆の中に入っていくと、いつも泣いていた」そうです。
一方、デモクリトスは笑っていました。
分かりやすくチャートにしておきます。
ヘラクレイトス・・・いつも泣く・・(群集が)哀れで
デモクリトス・・・・いつも笑う・・(群集が)愚かで
デモクリトスはどんな人でしょう(僕にはセネカ並に鬼畜な人だと思いますが、でもソクラテスよりは愛されそうです)。
デモクリトスは、いつも笑っていた。
ヘラクレイトスには、われわれのすることのすべてが哀れに見えたが、デモクリトスには、愚かに見えたからだ。
いやいや、哀れに見えるのも、愚かに見えるのも五十歩百歩な気がしますが、、、、
でも、表現されたものが違うのです。ヘラクレイトスは泣き(いつも泣いていたそうです)、デモクリトスは笑ったのです。群集の愚かさを。
そしてセネカはデモクリトスを見習えと言います。
これって、ちょっとだけユダの福音書のイエスにも見えます。
デモクリトスがイエスとかぶるといことです(ユダの福音書のイエスと)。
通常の正典とされる福音書ではほとんど笑ったことがない(唯一喜んだのは、ローマ百卒長に対して)イエスですが、ユダの福音書ではよく笑います。冒頭から笑います。
でも、それはデモクリトスと同じで、「愚かに見えたから」です。
そして、それを歯に衣着せずにガンガン言います(かなりひどい)。弟子たちも先生(イエス)の暴言に対する耐性は相当に高かったのでしょう。
でも、笑うことです。笑うことが重要です。
そんなイエスは、神すらも笑い飛ばすことでしょう(ですから、もしかしたらゲッセマネの祈りとか、エリ・エリ・レマ・サバクタニとか嘘なのかも。そういうヘラクレイトス的なイエスを批判して、ニーチェは奴隷宗教と言ったのかも。分かりませんけど)。
なんか完全に話が脱線していますが、、、、まあ、笑い飛ばしてください。
本題に戻らずに終わります(笑)