近代建築の三大巨匠の一人であるル・コルビュジエは、自身が機械文明を賛美していることに意識的でした。
機械文明とは工業化であり、工業化とは「工場」化です。
大量生産、オートメーション、ベルトコンベアが機械文明であり、工業化であり、「まといのば」ではそれを「工場」化と呼んでいます。
この工業製品に美を見出したのが、ル・コルビュジエということです。工業製品のある種のミニマル感を愛しました。
c.f.結構じゃないか、その名前を引き継ぎたまえ。君はル・コルビュジエだ。 2019年06月16日
工業製品はクローンです。繰り返されるクローンの輩出です。
それが大量生産・大量消費社会のイメージです。
*Jokerのホアキン・フェニックスのお兄さんのリーバーフェニック
バイオハザードもクローンが隠れテーマの1つですし、トム・クルーズのオブリビオンなどもクローンが隠れテーマでした。
同じものを複製するというクローンはたとえばオルタード・カーボンなどにも受け継がれ、それを真剣にやろうとしているのがピーター・ティールやイーロン・マスクたちです。
ティールは「永遠に生きる」ことを広言しています。
そのときにたとえばサーバーに自分の脳神経を移すこと(バックアップすること)を前提としているのでしょう(オルタード・カーボンですね)。
*オルタード・カーボン2も!!
ただし、これは既視感のある未来です。
いや、その前に先の話を片付けましょう。
すべては工場なのです。
機械文明はたしかに工場です。
多くの人が工場を愛します。そこでは手作りやギルドの職人たちに比べて、洗練され効率的でクリーンで、そして安く大量に作れます。
世界のトヨタの始まりは紡績でした。トヨタの創業者である豊田佐吉は発明家であり、織物からスタートしています。
*豊田式木製人力織機
Yanajin33 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
そこから機械化が進み、そして綿をめぐる事業が斜陽化することに気付き、自動車へと鞍替えしていきます(トヨタの最大の発明は「カンバン方式」と呼ばれるサプライチェーンの合理化でしょう)。
それはサプライチェーンも含めて工場にするということです。高速道路を走るトラックすらも巨大なベルトコンベアと見做すということです。
逆にサプライチェーンを改善することで、文字通りボトルネックを無くすことで効率化をはかるのが、The Goalのエリヤフ・ゴールドラット博士ですね。
c.f.「でも、あなた、気をつけて。ソクラテスが最後にどうなったかを知っている? 毒を飲まされたのよ」 2017年01月23日
この工業製品のミニマリズムを愛し、そしてその単調な反復に一種のクローン的な美を見出したのがル・コルビュジエです(たぶん)。
機械文明とか工業化というと、芸術家は忌避することが多いのですが(手作りこそが彼らのレゾン・デートルと思っているので)、ル・コルビュジエは違いました。
アンディ・ウォーホルも反復ということでは同様です(ただ彼の反復はむしろスタンプでした。初期の作品は文字通りスタンプを繰り返し押しています)(LINEのポイントもスタンプです)。
反復することで量が質に転嫁していく面白みがあります(まさに鍛錬やトレーニングはその面白みが全てです)。
で、何が言いたいかと言えば、我々の現代文明はこの機械化、工業化、いや工場化に始まり、そしてその工場化が限界に来ているということです。
どこに限界が来ているのか、、、いや、その前に、まず「工場化」の定義を広げましょう。
ポストコロナセミナーでも話題にしたように、我々は職人の技を工場化しただけではなく、農業も工場化し、畜産も工場化しました。
そればかりか、学校も病院も戦争も工場化したのです。
この光景はバイオハザードのクローンとかぶります。
いや、こちらの方がむしろ近いかも。いずれにせよ不健全です(この風景が牧歌的と思ったら、その僕らの脳回路は汚染済みですw)。
バイオハザードではアリスのDNAによってクローンがつくられました。アンブレラ社が作ったのです。僕らも畜産では同じことをしています。
「私たちは自然界に侵入し、資源を略奪します。私たちは牛を人工的に受精させたうえで、彼女の赤ちゃんを奪う資格があると思っています。」(ホアキン・フェニックス、アカデミー賞受賞スピーチ)
自身初となるアカデミー賞受賞のスピーチの最後にお兄さんのリーバーフェニックスのことに言及しました。リーバーフェニックスが17歳のときに書いた詩を引用します。
"When he was 17, my brother wrote this lyric, he said 'run to the rescue with love and peace will follow.
(私の兄が17歳頃、彼はこの歌詞を書きました。『愛を持って人を助けよ。平和はそれに続く』)
何かを学ぶことを時間で区切るというのは合理的とは思えませんが、それは工場労働者を作るためには合理的です。時間で動くというのは、人間も工場の部品として機能させるということです。
映画「モダンタイムス」の中でチャップリンがベルトコンベアで働くことを風刺しますが、そこには人間の機械化があります。人間がベルトコンベアに組み込まれているのです(そして完全に機械だけに収斂していくでしょう。AmazonのKivaシステムやドローン配達がそれを示しています)。
食事もまたベルトコンベアのようなっています。
当時も食事はすべて分析されて、宇宙食のようになりチューブで提供されるのが理想の未来のように描かれていました(今もそう考えている人はいます。これは機械文明のパラダイムゆえです)。
中学校では男子は陸軍、女子は海軍(セーラー)の軍服を着て、学校に行きます。
ランドセルがなぜリュックサックに変わらないのか(あの重さとそして金具の危険性は長く指摘されているのに)、それはランドセルが軍を象徴し、あの給食袋をかけるところは手榴弾をぶら下げるところと言われます。
ベルトコンベアに乗って、牛乳が給食として学校に届けられ、多くの乳糖不耐症の生徒がいても、カゼインの麻薬的な力(カソモルフィン)によってお腹を壊しても飲みたいものになります。
学校も工場であり、ベルトコンベアです。もちろんそこは一方で牢獄であり、牢獄も工場です。あれほど「行動変容」を迫る場所もありません(あとは軍隊ですねw)。
そして学校給食並の餌を提供するのが、病院食です。
病院食のひどさは、現代医学が栄養学を軽視どころか軽蔑しきっていることを示しています。
薬食同源の対極にあり、ヒポクラテスの「汝の食事を薬とし、汝の薬を食事とせよ」から程遠いのです(ヒポクラテス以来のユナニ医学を否定して始まったのが現代医学です。でもヒポクラテスの誓いだけは使いますがw)。
批判をしているのではなく、現状の分析です。
機械文明には光と闇があります。
機械文明という「工場化」は多くのものをもたらしてくれました。特に飢餓からの克服、そして圧倒的な豊かさです。
(ちなみに工場で大量生産された同じものを着るというのは、きわめてプロテスタンティズムの倫理的です。ジョブズが同じイッセイ・ミヤケを着るのはプロテスタンティズム倫理に見えます)。
臓器移植というのも、人間機械論から来ていますし、その論理的帰結はもちろん自分のクローンをスペアとして作っておいて、いつでも臓器を交換可能にするというアイディアです(ほぼ実現していますし)。
しかし、クローンはIn vitro(試験管の中)では作れません。
栄養を補給したまま寝かせておけば良いわけではないのです(そうれすれば僕らの罪悪感も薄れるでしょうが)。
それをえぐったのがカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」です。
クローンたちから見た世界が描かれています。
映画「わたしを離さないで」予告編
*予告編だけでも観る価値があると思います。
自分をサーバーにアップロードするというのは既視感があるのです。
このクローンと同じです。
コピーを作ろうと思ったら、生命を作り出さなければいけないのです。そこがボトルネックになります。
ですから神話は、死を忌避することに執着することをグロテスクなものとして描いています。
むしろ情報は永遠なのだから、今生きていることに執着することです。今この瞬間を生き抜けば、その情報は宇宙が終わるときまで、壊れることは無いからです。