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たとえばそれは生まれてから一度も音楽を聴いたことのない人に、音楽の説明をするようなものだった。

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どちらも完全に新コンテンツです。

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お釈迦さまの話の中でも比較的よく知られているものに、梵天勧請があります。

 

イエスやマホメットのような宗教指導者(と言うと彼らは嫌がるかもしれませんが)の中でも、釈迦(というかゴータマシッダールタ)の特殊なところは、非常に理性的でかつ現実的であったことです。

 

悟りを得てないものにどれほど言葉を尽くしたところで、悟りは伝わらないという絶望が釈迦にはありました。

 

以前も紹介した漫画の中でこんな一節がありました。

水墨画の達人の内弟子となりメキメキと上達していくというビルドゥングスロマーン(教養小説、もしくは冒険物語での成長譚)である「線は、僕を描く」の中の一節です。

 

たとえばそれは生まれてから一度も音楽を聴いたことのない人に、音楽の説明をするようなものだった。たぶんこうだろう、という答えを言っても、相手はきっと別のことを理解する。(『線は、僕を描く』)

 

うまいなーと思います。非常にうまい表現だな、と。

釈迦の梵天勧請はこうやって説明すれば良いのか、と。

 

生まれてから一度も音楽を聴いたことのない人に、音楽の説明をするようなものだ」って、言い得て妙です。

 

お釈迦さまは、この悟りをシェアすることはできないと言いました。

なぜなら悟っていない人に、悟りを伝えることはできないからです。まさに、音楽を聴いたことのない人に音楽を説明できないのです。

 

この感覚はとてもユニークです。

 

西洋社会においては特にユニークに感じられるのではないかと思います。

 

何か新しいことを発見したら、ユーレカ!!と裸で叫びながら、街を走り回りたくなるものです。

 

イエスもマホメットも真理を広めることに躊躇(ちゅうちょ)はなく、釈迦のようにまず諦めるということはありませんでした。

 

自分の悟ったところを、人々に話して聞かせることはむだである。自分の悟った法は、あまりにも深く、あまりにも微妙であって、愛欲に盲いた人々のよく理解するところではない。説法することは、むだな努力であり、いや、聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる。このまま沈黙をまもり、ただちに涅槃にはいるに如くはない(仏伝)

 

自分が悟ったところを人々に話して聞かせるのは無駄ばかりか、豚に真珠である(聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる)と断定し、沈黙したまま死にます!と言っています。

 

これはまさに「生まれてから一度も音楽を聴いたことのない人に、音楽の説明をする」ようなもので、それは音楽の良さを伝えられないどころか、音楽をそれに相応しくない方法で取り扱うことにもなり、音楽の神様に対する冒涜だ!!というような感じでしょうか。

 

とは言え、イエスも(釈迦のように)悩んでいるシーンはありますし、福音書の外伝ですがユダの福音書には、伝えることを諦めて、弟子たちをあざ笑うようなシーンもあります。「こいつらアホすぎる」と。その中にあって唯一ユダのみがイエスの心を知る人として描かれます。ただ伝えようとすることをその前に完全に諦めることはありません

 

イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。マタイ13:34

 

イエスは譬(たと)えを多用して、比喩によって、神の国に漸近しようとしました(ちなみに弟子たちには直接はなし、民衆には比喩を使っているとイエスが述べているシーンもあります)。その意味では、釈迦のような深刻な悩みは無いのです。すなわち、自分の悟ったところを悟っていないものに話すことは無駄であるという悩みは無いのです。

 

もちろんそんな釈迦を梵天様たちが説得をして、釈迦は重い重い腰をあげます。ブラックホールより重い腰を上げて、音楽を聴いたことのないものに音楽を説明するかのように、悟っていない我々に悟りを伝えようと歩きはじめます。

中村元先生もおっしゃっていたように思いますが、釈迦はともかくよく歩きます(イエスも)。

そして、様々な比喩を用いて(このときにあえて輪廻についても事実かのように語るときもありました)、悟りを知らない我々に話します(対機説法)。

 

菩提樹のほとりに座って、悟られ、そして立ち上がって歩き出して、教えを広められます。この最初に立ち上がったことを初転法輪と言います。

 

まさに不可能への挑戦、現状の外のゴールへの挑戦ですね。

 

ただ論理的に不可能だから、不可能というのは人間っぽくない発想です(AIくんっぽい発想です)。

 

実際、理論的には問題が解けないということを理論家が証明できるというのはよくあることですが、ソフトウェアエンジニアは、普通はうまくいく、つまり適当な時間内に良い近似を与える巧妙なアルゴリズムを見つけ出すものなんです。私は、人間の知的能力というのはそれに近いものだろうと考えています。うまくまねができるようにわずかでも、少しずつ這い上がっていくのです。(チャイティン「セクシーな数学」)

 

おそらくお釈迦さまはこの発想にいきつき、不可能な絶望の壁を何度も叩きながら、「適当な時間内に良い近似を与える巧妙なアルゴリズムを見つけ出す」ことに生涯をかけたのかと思います。これもまた仏伝ですので、本当かどうかは分かりませんが(しかし釈迦っぽいですが)、自分が悟りを開くよりも、その後の生涯の方がはるかにハードだったと釈迦は言い残しているそうです。

 

 

というわけで、何が言いたいかと言えば、同じ音楽の話をしても、音楽を聴いたことがあるのか、無いのかというのは、話しているうちににじみ出てくるというかわかってしまうものということです。

 

言葉だけをそれっぽく並べるのはAIくんでもできますが、そこに臨場感があるか無いかは、話しているうちににじみ出てくるものです。

 

ガイドブックを読んだだけで言ったつもりになっているのか、それとも自分の足でまわり、自分の目で見たのかは、ディテール(細部)や全体像(ゲシュタルト)でそこはかとなく伝わります。

 

ですので、ごちゃごちゃ考えずに、気功をガンガン実践しましょう。

気功整体師たちは、ガンガン気功整体を実践しましょう!

 

頭はモデルでしか考えられないので(モデル化は思考の高速化を実現しますが、短絡的です)、身体で考えるようにしましょう。実践の中で培っていきましょう。

 

そしてそうやって身についた知識というのは、それを身に着けた同士でしかシェアできない何かあるのです。そのほんものの知識(ガイドブックの引き写しではなく、実際に歩いて得た知識)を共有する同士で見えてくる世界があります。

(巷にいるヒーラーや気功師たちの多くはガイドブックの引き写しだと言っているわけではありません。「多く」ではなく「ほとんど」ですw。

でも、そんな詐欺師の楽園でも、書き換えはできて、ある一定の機能は果たせるので、社会は回っています。

でも、だからこそこの業界は馬鹿にされるのです。でも、まあそれは仕方ありません。本当に馬鹿ばかりなのでw)

 

 

BootCampでも、スクールでもその先の世界を観たいと思っていますし、観せることができると思っています。お楽しみに!!

 

というわけで、最後はイエスの言葉で!

 

Just do it!!

(「あなたも行って同じようにしなさい」ルカ10:37)

 

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