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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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悟りとは何ですか、と聞かれて、師は山道を立ち止まり、荷をおろした〜すべきことは無いという悟り

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「悟り」について、僕が好きな逸話にこんなものがあります。

出典を忘れてしまったのですが、よく使われる逸話です。

 

 

師匠とその弟子が旅をしていて、山道を歩いていました。おそらく坂道を登っていました。

弟子が師匠に聞きます。

 

悟りとはなんですか?どのようなものですか?

 

と。

 

それに対して、師はシンプルに、黙って立ち止まり、荷物を下ろします。

 

弟子は「なるほど!」と思ったのか分かりませんが、続けて質問します。

 

「悟ったあとの人生とはどんなものですか?」と。

 

それに対して、師匠は荷物を背負って、再び歩き出します。

 

 

この逸話が僕は非常に好きで、悟りについて不立文字に語っていると思います。

 

もうこれで十分だと思うので、この意味を詳しく解説すること自体が、蛇足の蛇足だと思いつつも解説を書きますw

 

ただ、一番良いのは、解説を読むことよりも、繰り返しその情景を思い描くことだと思います。

解説はどうしても本質からズレていきます。それは言語抽象度が低いからです。

(禅のポイントは「言語」で考えないことでした。これを無念無想と考えるから、悟った方とは植物人間状態だという誤解が生まれます。無念無想というのは言語で考えないということです。ビジュアルを頭に広げるのがポイントです。そこで心が言葉を語りだしたら、ストップさせるのがポイントです。これはヒーリングやコーチングでも同様です。言葉を語らせるのは、アバターに任せます。スクリプトを勝手に脳内ホムンクルスが語るイメージです)

 

 

この師匠と弟子の逸話から、我々は少なくとも悟った前と悟った後の人生は変わらないことが分かります。

ただ、悟った体験があるか否かが違います。でもやっていることは変わらないのです。

 

徳川家康ではないですが「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」ですw

 

しかし、それはいつでも止められるのです。

いや、より正確に言えば、いますでに止めているのです。

平たく言えば、そうしたいと思えば、すでにそうしているし、記憶にアクセスすれば、心と身体はそうだと認識します。

 

イエスはこう言いました。

 

 

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。マタイ5:27−28

c.f.しかし、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである〜情報と物理の密接さ 2018年09月27日

 
これは律法を厳格にしすぎている例として考えられがちですが、僕には行動経済学に見えます。

 

平たく言えば、我々が思っている以上に物理空間と情報空間は地続きなのです。

 

温かい飲み物を手渡すと、相手は温かい気持ちになり、そして渡した人を温かい人だと思うのです。

 

もちろん、マルクスガブリエルの言う通り、想像の世界のお金は現実の通貨と交換できません。

しかし、それは赤色と青色が同じに見えないことと似ています。

 

 

赤と青はたしかに違いますが、それは境界があることを意味しません。連続的か離散的かはともかくとして、グラディエーションで移動していけば、地続きであることが分かります。

かつては歴史と神話に境界がなかったように(日本でも同様です。初代は神様です)、かつては情報と物理の境はありませんでした。デカルトが心身二元論を唱えてからの悪習ですw(「まといのば」では冗談でデカルトの呪いと呼んでいます。皮肉なもので、二元論ゆえに発展した科学は早々に二元論から離れました。それが観測問題であり、ファインマンが量子力学の精髄と称した二重スリット実験です)

 

ちなみにこれも1つの「悟り」です。よく悟りとはその音から「差取り」などとも言われます。「差を取る」とは、境界があると思われていたところに、実は境界が無いことに気付くことです。空間と時間の差(区別)を取ったのはアインシュタインでした(質量とエネルギーの差も取りました)。

 

 

 

 

じゃあ、悟りとは何かと言えば、ルー・タイスならこう言うでしょう。

 

「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ?君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ」(ルー・タイス 2019年02月09日

 

すべきことは何一つないという気付きでしょう。

 

ルー・タイスはラディカルにこう言います。君は泣いている子どもをあやす必要もないし、壊れた配管を修理する必要もない。出したクリーニングを取りに行く必要もないと言います。

すべきことなどひとつもないのだ、と。

 

ただし、自己責任で。その結果の責任はもちろん自分で取るのが前提ですが。

 

 

走る必要もないし、息をする必要もないのです。

 

だから、選んだのであれば、それをせよ、と。

 

何一つすべきことなどは無いと気付くことが、悟りのひとつの風景でしょう。

 

 

そして、何かに夢中になってしまい(中毒になり)、それがやりたくて仕方ない状態がゴールを生きることでしょう。

 

 

 

【動画・書籍紹介】

アベンジャーズシリーズを観てきた人は絶対に観たほうが良いです!(観てきていない人はアマゾンプライムビデオで予習してから観ましょうw)

何を話してもネタバレになるので、口を閉ざします(^o^)

 

 

今回のメディテーションスクール受講生(そしてかつてのマスタリースクール受講生)は是非、「習得への情熱」を読み直してみてください!

 

全く違うリアリティーで読めるかと。

 

自分が観た風景が、見事に言語化されていると感じると思います。

あとはひたすらに繰り返し繰り返し鍛錬するだけです、喜びと共に。

 

 

チェスのチャンピオンだったころをモデルにした映画がこちら(原作は彼のお父さん)

子供の透き通るような美しさが見事に描かれています(映画としての面白さはともかくとして)。

 

 

 

 

 

 


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