メディテーション・スクール(瞑想スクール)が良い感じです。
瞑想とは何かを科学的に分析しつつ、古(いにしえ)の知恵の合理性を学び、そしてそれを自分自身に体現するという壮大な試みです。
瞑想自体が非常に広い概念なので、そのうちの最も重要な部分、理想的な部分を「Lemon」と名付けて、そこにアクセスする方法を習得します。
非常に面白いですし、これまで学んだ様々なことと有機的につながって、壮大な曼荼羅のように感じるのではないかと思います。
それも立体曼荼羅のようにw(空海ですね)
このメディテーションスクールで受講生が到達した驚くべき水準を今後のインフラにしたいと思っています。もちろん数年はかかるでしょうが、確実にインフラにしていけると思います。
かつて気功技術を人に渡す「伝授」という技術は、数少ない達人のみに許された技でしたが、いまでは気功を学んで一年もしないうちにできています。美容気功である美肌クリームも同様です。
「気の玉」や気感が超能力であった時代は「今は昔」ですが、その昔はつい最近までのことでした。
この次に制覇したい山としては、Addictionの山です。
ここ数回のスクールやセミナーのテーマでもあり、今回の重要なテーマでもあります。
Addiction(中毒)のカラクリはシンプルで、刺激と報酬と耐性です。
そしてそのカラクリを玩具(おもちゃ)の仕掛けを観るように眺められれば、Addictionにハッキングできます。
Addiction(中毒)とはシステムの名称であって、決して意志力を試されているものでも、怠惰さの結果でも無いのです。
喉が乾いたときに、間違って塩水(海水)を飲んでしまったら、また喉の渇くのです。
それを責めることはできません。
それがアルコールであっても、高度に精製された糖質であっても、他の各種ドラッグでも同じです。
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい(ヨハネ8章7節)
中毒を批判するのは、内なるやましさゆえと見做しましょう。そして、一旦、批判をエポケー(棚上げ)することで、アディクションから逃れることも、逆に好ましいアディクションに入っていくこともできます。
そのためのひとつの武器が瞑想法です。
ひとつのというよりは唯一のというべきかもしれません。
瞑想と言っても、目を瞑(つぶ)るのではなく、むしろ現実(Real)から目を覚まします。
今回のスクールでも扱いますが、Addictionへのハッキングを成功させることで、身体も心も澄み渡り、それが肌にもプロポーションにもIQにも反映され、非常に快適になることがひとつのゴールです。ささやかなゴールです。
実際はそこから周囲へと波及していきます。
(周りの人を喜ばせます)
周囲の人があなたの内なる輝きに感化されて(もしくはフェロモンに誘引されて)、次第に美しくなるというのが、次に見えている世界です。
知識も大事ですが、それを体現した人が、周りを感化していくことで、勝手に広がっていくイメージです。なぜ勝手に広がるかと言えば、システム1(無意識)の書き換えとはそうやって起こるからです。
(その場合、知識はトリガーとして機能します。ただそのトリガーが感化と歩調を合わせることで、心の深くにアンカリングされていきます)
瞑想のうちで最も重要な部分、そして我々が目指し、体現するべき部分をレモンと名付けたのは全くのランダムですが(笑)、、、、しかし幸いなことにレモンには苦難や困難という意味があります。
実際に、理想的な瞑想法を身につけると、人生はより困難に満ちたものになります。
偉大な能力には大きな責任が伴うので、当然です。
どんどん無理ゲーになっていきます。
でも、それ自体が喜びであり、挑戦しがいのあるものと瞑想者は感じます。
そこでのポイントを一言で言えば、「圧倒的な危機感をエネルギーに変える」ということです。
これは僕の大好きな小説である村上龍さんの「ヒュウガ・ウィルス」で幾度となく繰り返されるテーマです。
わたしはこれから、圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業を日常的にしてきたか、を試されることになります、自信はまったくありません、多くの人が試されるのでしょう(p.233村上龍「ヒュウガ・ウィルス」)
「圧倒的な危機感をエネルギーに変える」ことを「作業」と呼び、それを「日常的にしてきたか、を試される」というのが本当に素晴らしい。
人生の中で一度や二度の体験ではなく、日常にしてきたかが重要です。
メンター1期の冒頭で、非常に残酷な予言をしています。
それは、プロのヒーラーになる人は、肉親やパートナーや友人の死を修行期間に体験する、というものです。
(蛇足ながら、浅はかな誤解を避けたいので書きますが、気功を学ぶことで周囲の死が訪れるわけではありません。学ばなくても訪れます。そうではなく、絶望が人をヒーラーに生まれ変わらせるという話です)
気功を学び始めて、気功の楽しさや魅力にとりつかれ、いろいろな人に試しているうちは幸いです。楽しさに溢れています。
でも、あるとき、唐突に運命は試練を与えます。
親戚や家族、友人やパートナーが死に瀕し、そして自分が気功で何とかしなくてはいけない事態に追い込まれます。もちろん医師も手を尽くしてくれるのですが、奇跡を起こさなくてはいけない状況に追い込まれるのです。
そして確率論的に悲しい別れが訪れ、絶望の淵に突き落とされます。
圧倒的な危機感をエネルギーに変えても、どうにもならないことはあるのです。
その絶望が脳内を永遠にエコーしているからこそ、ヒーラーはヒーラーとして自立します。
そのことについて語る人は多くありませんが、ヒーラーの笑顔の裏を探ってみると、そういう絶望がゴロゴロと転がっています。
もちろん奇跡的に生還する場合もありますし、自分自身が死の淵からサバイブすることもあります。でも地獄は地獄です。
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
レモンとは苦難のメタファー(比喩)です。
人生が困難を与えるのであれば、そこからレモネードを作れば良い、と。
けれども、賢い人はレモンを手にして自問する。
「この不運からどんな教訓を学ぶべきだろう?
どうしたら周囲の状況がよくなるであろう?
どうすればこのレモンをレモネードに変えられるだろうか?」(デール・カーネギー「道は開ける」)
というわけで、本日のメディテーション・スクールもお楽しみに!!
そして、今後の「まといのば」の新たな展開もお楽しみに!!
【書籍紹介】
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デール・カーネギーの言葉のように人口に膾炙(かいしゃ)していますが、実際は孫引きの孫引きであることが、本人の口から明かされています。
イエスやジョブズと同じです。
自分で出典を明らかにしているにも関わらず、彼らの言葉として認識されるのです。
(引用開始)
本書を執筆中のある日、私はシカゴ大学を訪れ、ロバート・メイナード・ハッチンズ総長に悩みから逃れる方法を尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。
「私はシアーズ・ローバックの社長、ジュリアス・ローゼンウォルドの『レモンを手に入れたらレモネードをつくれ』という忠告に従うように心がけている』(訳者注ーレモンという言葉には不快なものという意味がある)(引用終了)
自己啓発の祖とも言えるデール・カーネギーですが、彼もまた1つの小さな円を繰り返し繰り返し描くことで、我々の心を開こうとします。
逆にひとつの円がしっかり身体に入れば、ほかは同じメロディーの変奏曲です。
最近、「心の社会」について、メンター受講生から質問がありましたが、ミンスキーの主張は冒頭でほとんど明確に描かれています。そのあとの膨大な議論はその主張をあの手この手で読者の心に刻むための手練手管です。繰り返しているだけです。その構造が見えると、理解は速くなります。
それが見えないと、デール・カーネギーにせよ、ミンスキーにせよ、なぜくどくどと様々な話をしているのだろう?と訝(いぶか)しく思うことになります。
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余談ながら、今回のスクールやセミナーでも繰り返し言う「より小さな円を描く」はかつてのマスタリースクールで紹介したジョッシュ・ウェイツキンの言葉です。
(同じ趣旨のことを「まといのば」では「小さな系で理解する」などと寺子屋では言っています)
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