一方で、言語は非常に役に立ちます。
何の役に立つかと言えば、ゴールを達成していく役に立ちます。
夢を実現したり、理想の生活をしていくための役に立ちます。
言葉に対する感覚を磨くことが、ゴール設定やゴール達成に役立ちます。
ゴール設定1.0がいわば自分自身のゴールを設定することだとしたら、ゴール設定2.0は相手のゴール設定を手伝い、その実現を手伝うことです。
これをセミナーなどでは戯(たわむ)れにMentoringと言っています。
メンタリングですね。
「Mentorする」という意味です。
そのうちこのMentoringをセミナーやスクールのテーマにしようかと思っています。
Mentoringをする人をMentorと言いますw
面白いので、初回のスクールに出た人にはMaster Mentorの称号を与えたり、スクールを複数回出たら、Grand Master Mentoringにしたりw(冗談ですwww)
そのうち、ダイヤモンドグランドマスターとか、シルバーやらプラチナやら、まあ、そんなスタンプラリーがあっても面白いと思います。
メイソンリーのようにエプロンではなく、スカーフが豪華になっていったり、袈裟が豪華になっていったり、、、
まあ、いろいろと夢は膨らみます(けど、やりませんが)。
c.f. Netflix:フリーメイソン〜世界的秘密結社の謎に迫る〜
まあ、それはともかく「まといのば」のゴールとしては、このGoal Setting1.0にせよ、Goal Setting2.0にせよ、どちらもが普通に上手な集団を目指したいと思います。
この先の世界では、優秀な人間になる必要はありません。
優秀な人間というか、頭の良い人間というのは、この先の世界では足の早い人間と同じです。
重要な能力とまでは言えません。
しかし、現状の外にゴール設定して、それを達成する能力は今後はもっと重要になってきます。
なぜならそういう未来が待っているからです。
ちなみに今月か来月のまといのば講座ではそんな講座をやりたいと思っています。
ゴール設定講座ではありません(それは4月に「手帳講座」として開催します。手帳講座とは毎年恒例のゴール設定講座です)。
テーマは「未来」です。
「未来」とは輝かしいものというよりは、むしろグロテスクなものです。
我々は便利で豊かな社会を思い浮かべますが(もしくは貧困と不平不満に満ちた世界を)、それは間違いです。むしろ非常にグロテスクで、否定したいものです。
ですので、老人は新しいものを憎み、過去を懐かしみます。これを読んでいる人は(たとえ中学生でも)老人なのです。
某マルチというか、ネットワークビジネスの人の話によれば(そこでは商品の販売をして、ネズミ講を構成しているのですが)、インターネットで営業をしてはいけないそうです。
これは面白い話です。
彼らの論理の中に、卸業者が幾重にも入ることで、販売価格が高騰するので、自分たちは直販しているというものがありました。
しかし、もし現代において、本当に直販したければアマゾンで販売すれば良いことです(かつてはアマゾンがありませんでした)。
ですが、彼らはインターネットで営業してはいけないそうです。
なぜか?
その理由が非常にふるっています。
それは、そのネットワークビジネスを仕切っている長老たちがインターネットを理解できないからだそうです。理解できないので、使ってはいけない、と。
面白いです。
余談ながら、堀江さんが面白いことを言っていました。
サムネイルにもありますが、「親はバカなのに自分は親になった瞬間に立派な人間になったと錯覚するんだろう?」です。
まあ、いまYoutuberが来ていて、ゲーム実況が来ているということは、未来においては、もう斜陽産業どころか存在しない可能性が高いとは思います。
公務員かYoutuberかという小学生の理想を考えると、子供こそが一番保守的で社会の影響を受けやすいのだなと思います。
だとしても、いまYoutuberを目指したり、ゲームをしまくるのは悪いことだとは思いませんが。
何かに熱中した経験は大事だと思います。
話を戻すと、件(くだん)のネットワークビジネスではインターネットを使ってはいけないそうです。なぜなら権力を握っているご老人たちが理解できないから、と。
(ちなみに皮肉なことに、ここの商品はアマゾンで購入できますw)
というわけで、本題に戻ります。
言語は使えるという話です。
たとえば、相当に瞑想に慣れている人以外は、非言語だけでずっと考え続けることはできません。
最初のうちは言語の補助輪が必要なのです。
たとえば、「前屈が柔らかくなりたい」というゴールがあったとします。
本人としては、「前屈が柔らかくなりたい」というのはきわめて明瞭なゴールです。あまりに具体的なゴールに感じます。
しかし、MenTorはそうは考えません。
非常に不明瞭な言明だと考えます。
そこでどんどん質問していきます。
「前屈とは何ですか?」
「柔らかくとは何ですか?」
「前屈とは股関節を屈曲することです」と言われたら、「股関節とは何ですか?」「屈曲とは何ですか?」と重ねて質問していきます。
余談ながら、前屈が柔らかくなりたいと言う人の中に、股関節の場所が分かっていないで、腰椎で前屈しようとしている人は多くいます。股関節を解剖学的に認識し、そして自分の癖をビデオなどで理解し、股関節を指さしながらそこを折るようにするだけで、柔らかくなったりします。
言葉の定義というのはきわめて大事です(ここで「言葉は定義できない」という議論を持ち出さなくてOKです。アインシュタインの相対性理論以降もニュートン力学は用います)。
そのときに観るべきは言葉の意味ではありません。
言葉の使い方、そしてそのときの身体の状態です。
意味に意味はありません。
さすがにメンターは「前屈が柔らかくなりたい」の言葉通りの意味は分かります。絵も浮かびます。
しかし、ポイントはクライアントの心の中でそれが何を意味するかなのです。
「何を意味するか」を「(心の)どこにあるか」と置き換えれば、よりMentoringがしやすくなるでしょう。
例えて言えば、オリンピックゴールドメダリストが「僕が何のために走っていると思っているんですか?」と聞いた時に、ルー・タイスはこう答えます。
「まったくわからないな」と。
この感覚こそが重要です。
c.f.じゃあ、黙って走ったらどうなんだ?君は走る必要はない。でも走ることを選んだ。(ルー・タイス) 2017-12-28
定義をしながらMenTorが何をするかと言えば、クライアントの内部表現を観察していきます。
どんな言葉で世界が満ちているのか、どんな言葉が無いのかを観察します。
そして整理しながら、断捨離していくと、理想世界へのパス(path)が見えてきます。
*断捨離ではないですが、トキメキと言えばこんまりさん。すごいですね。
繰り返しになりますが、クライアントの内部表現を、使っている言葉や思い浮かぶ言葉から観察し、その言葉の運用の仕方(ロジック)から風景を眺めます。
クライアントの言葉を繰り返したり、Echo(エコー)させながら、相手の内部表現に切り込み、そして積極的に整理していくと、勝手にゴールが更新されたり、理想世界へのPathが見えたりします。
そしたらそのPathをFixします。釘で打ち付けるイメージです。
情報空間に釘で固定します。そのときの方法がフレームをまるまる記憶する(フォトメモリー)であったり、名指しであったりします。フォトメモリーをアンカーとして、名前をトリガーとします。
このPathは基本的には知識のカタチで提供されます。
しかし、これは使い捨てコンタクトレンズと同じです。それもOne dayです。
一日しか効果はありません。しかし世界を観るのには役に立ち、移動するのに役に立ちます。
この作業はきわめて機械的にやっていきます。
機械的な作業でしかありません。
それをGoal Setting2.0とか、Mentoringと呼ぼうと思っています。OnLine MenTorやOnLine ReCordとの一貫性で言えば、MenToRingですかね(ちょっと鬱陶しいですね)。
まあ、名前は何でも良いのですが、この純然たる作業をサクサクとできる人を多く育てたいと思っています。
それほど難しい話しではありません。
ただ知れば知るほど面白い世界ではあります。
ただ多くの人が嫌うのです。
多くの人が夢を語ることも、夢を実現することも嫌うのです。
なぜかと言えば、それが現状を肯定したいという生命の本質だからです。でも生命の本質は一方で現状の外に飛び出したいものです。
未来はすぐ近くまで来ていますし、その濁流に飲み込まれるか、泳ぎ切るかは自分次第ですし、ゴール次第です。
【書籍紹介】
タイトルはルー・タイスのアファメーションからの引用です。
こまやなMind操作が見えるか、書き割りのような言葉だけが踊って見えるかで味わいが変わってきます。
「解決策はあるよ。でも、君はそれを嫌がるかもしれない」
「教えてください。どんな方法ですか?」
このやりとりだけでも、膨大なテクニックと駆け引きが優雅に使われています。
(我々はそれを"Focus & Misdirection"と呼びましたが。またこのシークレットスクールの内容を含めた総決算スクールを3月30日、31日に開催します!)
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ルー・タイスの『アファメーション』から引用します!
(引用開始)
以前、キプチョゲ・ケイノというケニア出身の長距離ランナーのコーチを務めたことがありました。彼はモントリオール・オリンピック出場を目指していたところで、レースの最終ラップ、最後の四〇〇メートルになるといつも経験する激痛に打ち勝つために、何か心理学的な訓練方法はないか知りたがっていました。
私は彼にたずねました。
「レースのそのポイントに差しかかったとき、何を考える?」
「あと四〇〇メートルも走らなければならないと、思います」
「しなければ」を基準に考えることで、自らの痛みの原因をつくり出していました。
そこで、私は言いました。
「解決策はあるよ。でも、君はそれを嫌がるかもしれない」
「教えてください。どんな方法ですか?」
最終ラップに入って、最後の四〇〇メートルを走らなければならないとわかったら、そこで止まるんだ。走るのをやめるんだよ。そこで止まって、トラックの内側に座り込むんだ」
キップは言います。
「そんなの、ばかげています。座り込んだら、レースで負けてしまうじゃないですか」
「そうだ。でも、少なくとも君の肺は苦しくなくなる」
「僕が何のために走っていると思っているんですか?」
「まったくわからないな。 いいかい? 私が走らないことは知っっているだろう? 私だって、あの痛みは我慢できないさ」
「僕が走るのは、モントリオール・オリンピックで勝てたら、牛がもらえるからです。僕の国では、それでずいぶん金持ちになれるんです。家族は、僕をアメリカの大学に送るために自分たちの生活を犠牲にしてきました。だから僕は、家族のためにも国のためにも、金メダルをとりたいんです」
私は言いました。
「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ? 君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ。私になぜ走りたいかを話した。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要などないんだよ。レースを終える必要なんてないんだ。いつだって止まることができるんだ」
「僕は走って勝ちたいんです」
「じゃあ、それに気持ちを集中しろ。『したい』『選ぶ』『好む』を忘れずに練習しなさい」(引用終了)(pp.85-86 ルー・タイス『アファメーション』)