たとえば前屈をするときに、前屈をする一瞬前にイメージをします。
それは、グニャリと曲がっているイメージかもしれませんし、股関節からきちんと折っているイメージかもしれません(多くの硬い人が腰椎で曲げようとします)、筋肉がゴムのようになっているイメージかもしれません。
どれでも良いので、イメージを強く持って、前屈してみます。
すると、いつもよりも前屈ができるイメージが必ずあります。
そのイメージを使うと、前屈がいつも以上にいけるというパターンがあるのです。
たとえば、「筋肉がゴムのように伸びる」というイメージが一番、前屈ができるとしたら、そのイメージにこだわりましょう。
「ゴムのように」を非言語化して、体感を上げます。臨場感を上げます。
イメージするときに、手でゴムを引っ張るような仕草をして、そのときにゴムの張力を感じます。
このときやってはいけないのは、マントラを繰り返すことです。
たとえば、
私の身体はゴムのように柔らかい
私の身体はゴムのように柔らかい
私の身体はゴムのように柔らかい
などと繰り返しマントラしてはいけませんw
(まあ、言われるまでもなく、そんなことをブツブツ言っているやつは身体が硬そうですよね)
(アファメーションでやってしまう最大のミスが悪い意味でのマントラ化です。アファメーション自体は有効です。ただフォーカスをミスると目も当てられないことになります。そこで重要なのは...)
言語は一種のトリガーとして使います。
言葉からすぐに非言語のイメージの世界へ移動します。
ゴムを引っ張ったり、ぐにゃぐにゃしているイメージを手の動作付きでやることです。
ちなみに、余談ながら、この非言語で考えることはとても大事です。
先日のセミナーでも話しましたが、そもそも禅や瞑想で言う無念無想とは言語で考えないということです。「考えない」ということではありません。言葉を使わなければ、何を考えても良いのです。僕らの師の言い方で言えば、「思考停止がもし禅の理想なら、植物人間状態が禅の理想の体現となる」のです。そんな馬鹿な話はありません(いや、「そんな馬鹿な」を本気で信じている集団はいますが)。
ますます余談ながら、密教的な在り方としては、言語をきわめた先に言語を超えるのです。龍樹の中論ですね。
たとえば、数学が極端な例ですが、数学者は文字で考えているわけではなく、イメージで考えています。イメージで考えているものを他者と共有するために、数学の言語を使っています。
音楽がわかりやすいですが、楽譜が文字であり、文字によって召喚されるイメージの世界を現実に写像するのが演奏です。文字は豊穣なアンカーを引き出すための魔法の呪文であり、トリガーなのです。
ただ、言葉はあまりに便利な道具であるために、よく主客転倒が起こるのです。でもそれはソクラテスが最も嫌ったことです。
文字の父であるおまえは文字への愛着のあまり、文字が実際にもっているのとは反対の力を文字のものだと 2018-10-23
閑話休題(話を戻します!)
身体がゴムのようになるイメージを持つことで、前屈に成功したら、そのイメージを増幅していきます。
手を使ったり、頭を使ったり、感触を使ったりして、増幅していきます。
そしてまた前屈をしてフィードバックを取ります。
頭の中で起きたことが、現実に写像されます。
現実とは影です。
何の影かと言えば、脳内イメージの影です(これをかつてプラトンはソクラテスの口を借りてイデアと言いました。イデアとはカタチのことです)。
ですので、本体であるイメージを選び直せば、影はカタチを変えるのです。
これを繰り返すことで洗練されていきます。
何が洗練されるかと言えば、イメージが洗練されるのです。そしてその結果としての現実の写像も洗練されます。前屈が驚くほど柔らかくなるのです。
「からだがゴムのようになる」というイメージのために5つの手順が必要で、3分かかるとします。
そしたらその物理的な手順と時間と空間を全部パッケージ化することもできます。
どうパッケージ化するかと言えば、これもイメージで行います。
一連の手順をイメージするのです。
(ちなみにかつての絵画は物語が一望できるようになっていました。一望で、全体の物語が見えるのです。今のように一瞬を切り取るのではなく、物語の最初から最後までを一望できます。)
*楽園追放ですが、左でアダムとイブが誘惑され、右でケルビムから追い払われています。左から右へ時間が流れます。そしてその時間軸が一望できます。
パッケージ化したものは、すぐに取り出せるように、名前をつけます。
Naming(ネーミング)ですね。
可能世界にまたがる同一性ですね。可能世界をメタに支配するのがNamingです。
*クリプキ先生
(引用開始)
目下私がつけようとしている区別を説明するためには、通例、そして私の考えではいささか誤解を招きやすい「諸世界にまたがる同一性」と呼ばれる概念が必要である。(略)ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。ある性質がある対象に本質的である考える時、われわれは普通、その対象が存在したであろうどんな場合においてもその性質はその対象について真となる、と言っているのである。必然的存在者を指す固定指示子は、強い意味で固定的と呼ぶことができる。
この講義で私が主張しようとする直観的なテーゼの一つは、名前は固定指示子であるというものである。(略)すなわち、直観的に言って、固有名は固定指示子である。(引用終了)
(クリプキ「名指しと必然性」pp.54-56)
名前をつけることで、それがトリガーとなり、一連のイメージの連なりを呼び出すことができます。
そうすると5分かかっていたのが、5秒でできたりします。
そして、それが本当にできたのかどうかは、物理的現実世界に落ちてきた写像で分かるのです。
これをフィードバックと我々は呼んでいます。
トリガーは言語である必要はなく、ある種の身体のカタチでも良いのです。
印などと呼んだりもしますが、動作や癖などでも良いのです。
そしてそういう印だけですべての動きを構成すると、バレリーナやアスリートや修行僧のような削ぎ落とされた美しい身体となります。彼らは「イメージ」に従っているのです。従うためにすべての動きを「印」とするのです。そうやって彼らは少しずつ理想ににじり寄ろうとし続けるのです。
というわけで、前屈する前にいろいろなイメージを試してみてください。
そしてこのイメージのパッケージのパッケージのパッケージは不思議なことに人にコピーすることができます。
情報空間を考えれば不思議でも何でも無いのですが、それでも物理的現実世界に生きている私達にとっては不思議に感じられます。
このコピーすることを古い言葉を使い「伝授」と言い、そのパッケージ自体を「まといのば」では気功技術と呼んでいます。
単に気功技術を使いこなすだけではなく、これからは気功技術を創る側に進化していきましょう。
最初はおままごとのようなレベルで良いので、楽しみながらやることが肝要です。