やらなければいけないことというのは、深い重い霧のようなものです。視界を狭くし、視界を遮り、身体にまとわりつき、全身を冷やし、我々は震わせます。死に至る病です。
何かを「やらなければ」と思ったら、マジックワーズを叫びましょう!
「これをやりたい!」と。
もしくはルー・タイスを出現させて、
「私はこれを選ぶ、これがしたい、これをやる」
と叫びましょう!!
トイレ掃除でも、おむつを替えるのでも、シンクを磨くのでも、洗濯物を干すのも、すべてです。
義務などはなく、自分の自由意志があり、「わたしはこれを選ぶ、これがしたい、これをやる」と叫べば良いのです。
心から思えなくても、Fake itですね。
ふりをすることです。
実際のところ、義務としてやるのは密やかな快楽があります。奴隷には自己決定権の放棄という快楽があるのです。しかしそれは麻薬です。悪い意味での麻薬であり、悪い意味での快楽なのです。
それはじわじわと自分を汚染し、自分は無力だというマインドセットを醸成します。
気付いたら土台が腐り切るのです。そしてその腐ったマインドセットがより奴隷としての快楽を求め、悪循環が続きます。
その悪循環を断ち切るマジックワーズはシンプルです。
「私はこれを選ぶ、これがしたい、これをやる」
です!
脳内にルー・タイスを召喚して、
「君はそれをする必要はない。
でもそれをすることを選んだ」
と力強く言ってもらいましょう!
それが客観的に見て、義務であり、いやいややらされているものだったとしても、「私はこれを選ぶ、これがしたい、これをやる」と叫べば、宇宙に対して大きな宣言となり、ギアが逆回転しだすのです。
すべては解釈次第という口先だけの話しではなく、大きな流れ自体が変わります。
トイレ掃除をする必要はなく、食器も洗わなくても良いのです。
子供のおむつを替えなくても良いのです。ただし、その結果はすべて引き受ける必要があります。その結果として起きる結果を引き受けたくなければ、別の道を行けば良いことです。
別な道を行く方法が、
「私はこれを選ぶ、これがしたい、これをやる」
です。
そして、そのまま行動しましょう。
イエスも定義をぐたぐた聞くパリサイ人に「いいから、黙ってやれよ」と怒鳴っていますw
そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカ10:37)
シンプルにシンプルにやりたいことをやりましょう。
やりたいことが見つからなければ、周りの洗脳家達がガンガンあなたに書き込んでいきます。それも良かれと思って書き込んできます。善意で。
ゴミを押し付けられても、ゴミがたまるだけなのですが、相手はギフトのつもりです。
そして、そのギフトの応酬を全肯定するのが、資本主義経済です。
資本主義はこの世のゲームのルールなので、ゲームを否定するのでもなく(肯定するのでもなく)、うまく乗り切りましょう。利用すれば良いことです。
そして自分のゴールを達成するためのツールとして使えば良いことです。
ゴミを押し付けられても、自分にとってのギフトが何か分かっているなら、ゴミはスコトーマ(盲点)に隠れます。分かっていないからいつも目移りするのです。
ピカソが面白いことを言っています。
「画家とは結局なんですか?」という質問に、ピカソはこう答えた。「それは、自分が好きな他人の絵を描きながら、コレクションを続けたいと願うコレクターのことだ。私はそうやって始め、するとそれが別物になっていく」。そして彼はつけ加えた。「巨匠をうまく模倣できないから、オリジナルなものを作ることになる。」(p.234)
我々も自分の好きな他人の真似をガンガンして、そのコレクションをし続け、模倣し続け、そして模倣できないことによって、オリジナルになりましょう。
完コピを目指すと、オリジナルになるのです。
まさに「陰が極まれば陽となる」のです。
中途半端なコピーが中途半端なのであって、とことんやればオリジナルになってしまうのです(たぶん)。