「まといのば」は基本的にはセミナーとスクール、そしてパーソナルセッションの3つ構成されています(セミナーによってはバックナンバーでビデオ受講できます)。
スクールは土日開催のことが多く(もしくは祝日ですね)、セミナーはいまは火曜日と木曜日の19時から21時半です(とは言え、22時半まで伸びること多々あります)。
昨年の11月からスタートしたのが、気功の通信講座であるオンラインメンターです。これはセミナーとスクールとパーソナルセッションが融合したような非常に特殊な講座です。
かなりマンツーマンな指導ですので、面白いように結果が出ています。
一番驚いているのは、受講生ご本人だと思いますが、僕自身もこれまでたくさんのヒーラーを育ててきたものの、オンラインメンターの結果には驚かされています。
そこで見えてきた結論は、、、シンプルなことをシンプルに繰り返すのは最強だなということです。
大事なことなので、もう一度言いますが、、、シンプルなことをシンプルに繰り返すのは最強です
すでにヒーラーとして活躍されている方はますます活動の幅を広げ、全くゼロベースで飛び込んできた方も、ガンガン活躍され始めた方もいます。
かなりすごい感じなので、、、普通に紹介しても、おそらくとうてい信じてもらえないレベルの方もいます。
オンラインメンターの質問のレベルも非常に多岐にわたり、面白いです!
最初の頃は質問をシェアしていたのですが、それが余計な刺激になってお互いを意識しだしてしまったので、最近は控えています(控えすぎですが)。
ただ、どこかでメンターに寄せられた質問集をブログでシェアするようにしたいと思っています。
かなり多くの人に参考になるかと思うからです。
オンラインメンターという企画のプリンシプルはシンプルです。
ゴールが全てであり、ゴールが運もチャンスも機会も人も気功技術も引き寄せるというものです。
メンターでは、「ゴールが(気功技術などを)召喚する」と言います。
ゴールが気功技術もチャンスも呼び出すのです。
とは言え、ゴールから見放されたように感じ、ゴールが何かバカげた書割(かきわり)のように感じてしまう闇の時間が来るものです。
スピリチュアリズムで言うところの「魂の闇夜」というのが訪れることはあります。
「訪れることがある」というよりは、シンプルに確率論的に考えれば、死と同じように、長期的には確実に訪れます(何回もサイコロを振れば確率論的にいつかは確実に「1の目」が出るようなもので)
そのときは我らが先輩であるイエス様の深い絶望を思い起こしましょう。
あれほど神に愛された方も、あれほど大成功をおさめた方も深い絶望と悲しみに落ちることがあるのです。天井なしのハイエフィカシーに見える御大(おんたい)におかれましてもです。
その絶望や悲しみとは、象徴的には、いわゆるゲッセマネの祈りであり、十字架にあっての「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、なぜ見捨てたもうたか)」(マタイ27:46)という絶叫です。
14:32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた(略)
14:34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(略)
14:35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
14:36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
*天使に慰められているところですが、、、、
慰められてなお「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」のです(ルカ)。
これほどまでに苦しむのであれば、ゴールなど抱かなければ良かった、ヒーラーなどならなければ良かったと思う瞬間(瞬間で終わらず、永遠に続くかのように感じます)があるものです。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と思い、「もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り」たくなる瞬間です。
僕はイエスが悲劇だと思うのは、あれほどまでに自信にあふれていた青年が、神から見放されたと感じ、そして文字通りに読むならば絶望の中で死んでいったことです。
「神よ、なぜ見捨てたのか!」と絶叫して絶命するというのは明白な悲劇です。
とは言え、もちろん異なる考え方もあります。ご承知のとおり、イエスの口から出る言葉はほとんどが律法であるところの旧約聖書からの引用です。エリ・エリ・レマ・サバクタニも詩篇の一節の冒頭であり、この一節の意味は神から見放されていると感じ、絶望の中にいるが、しかし私は神の愛と恩寵を信じているというものです。ですからイエスも、単純に「なぜ見捨てたもうたのか」という意味ではなく、詩篇の本来の意味で使ったのかもしれません。とすると、意味は逆になってきます。
とは言え、いずれにせよ、それほどの深い絶望と悲しみの中にあったのは事実です。
あれほどまで神に愛され、神の愛を一心に受け止めたかに思えたひとり子ですら、苦しむのですから、我々も苦しみましょう。
いや苦しんだときは、イエス先輩のことを思って、踏ん張りましょう!!
アリストテレスは友、プラトンは友、でもイエスも友です( ー`дー´)キリッ
【参照引用】
いやーーーー、やはり、お酒は冷酒に限る物語は悲劇に限ると思います。
以前にも紹介しましたが、
胸をかきむしりたくなるような強烈な絶望と悲しみをいくつか、、
まずはエリ・エリ・レマ・サバクタニから、
22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
自分を助けてくれていたインスピレーションの源から情報が来ない、沈黙しか返ってこないということはあることです。特にその源からの情報によって(神の言葉によって)、これまで人生を加速させてきた人にとっては、この沈黙は裏切りにも感じるでしょう。
逆のこの感覚は、何か絶対的な外部から情報が来たことがあると確信した人以外には意味不明なものです(余談ながら、その回路をこじ開けるのが、瞑想スクールであり、「はじめての手帳」講座ですね、、多分)。
そして詩篇と言えば、こちら
詩篇137章
137:1 われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
137:2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
137:3 われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
137:4 われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
平たく言えば、いじめですね。
故郷を追われた人々に対して、主をあがめる歌をうたえというのはいろいろな意味で鬼畜な所業です。
そして、ラストがゲッセマネの祈りです。
14:32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。
14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
14:34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
14:35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
14:36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
14:37 それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
14:39 また離れて行って同じ言葉で祈られた。
神からも裏切られて、弟子からも裏切られたとイエスは感じたでしょう。
*石版割っている場合じゃない気がしますけど