マクベスの冒頭で3人の魔女たちが声をあわせて歌います。
きれいはきたない、きたないはきれい
これは綺麗に韻を踏んでいるのは言うまでもありません。
Fair is foul, and foul is fair.
(フェアはおなじみですし、プロレスや野球でもファールは良く使います)
「きれいはきたない、きたないはきれい」とは、
A = ¬A
のカタチの命題で、それだけでも十分に萌えますが(笑)、それはまた別の話し。
先日の寺子屋リニューアル版「分子生物学」では、ダーウィン進化論の盲点についてやりました(*^^*)
もちろんダーウィンの進化論は素晴らしい発見であり、生物学を激変させた金字塔に間違いはありません。
しかし、それは間違っているのです(いやいやインテリジェント・デザインに戻るわけではありません)。
正確に言えば、ダーウィンの進化論は正しいがゆえに深刻な盲点を生じさせます。
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と言ってもシンプルな話しです。
進化は時間軸に沿ってのみではないということです。
ダーウィンの進化論を一言で言えば、突然変異と自然淘汰です(一言なのか?)。
Mutation(ミューテーション)とNatural Selection(ナチュラル・セレクション)ですね。
まずは突然変異です。
突然変異というのは、DNAのコピーのエラーのことです。それが形質にまで影響を与えたときに突然変異と言います。
完璧な絶望が存在しないように、完璧なコピーは存在しません。
生命現象のポイントは自己複製と自己保存です。その複製には必ず必然的にミスが生じます。
なぜでしょう??
シンプルな原理が背景にあり、それを我々は不完全性定理と読んでいます。
完璧なコピーが不可能であっても、問題はありません。エラーは排除されるからです。
何重にもチェック機構があり、エラーは慎重に排除されます(これはたとえば我々の中の免疫細胞も同じです。ほとんどの免疫細胞はセレクションによって排除されます)。
ですので、DNAのコピーミスが顕在化することはまずないのですが、しかしそのチェック機構をかいくぐって、形質として現れて、なおかつそれがなぜか環境の激変に適応的だったとき、、、そして何世代も生き残った場合において、それを「進化」と呼びます。
これがダーウィンの進化論です。
進化は親から子へという垂直方向に存在するというのが我々の中心的命題です。
生物学も他の学問と同様に形式化の洗礼を受け、数学を取り入れます。
牧歌的な観察と仮説の学問から、数学的な発想を要求されるようになるわけです。
すると、垂直方向だけでは足りないことが分かります。
何が足りないかと言えば、時間が圧倒的に足りないのです。世代を経て、少ない確率で進化するとしたら、そしてそれが環境に適応するとして、、、、時間がいくらあっても足りません。
しかし生命はそんな計算を無視するかのように、豊穣に進化しています。
ここで我々に欠けているのは何だったのでしょう??
垂直方向の進化だけで、観ていては全く見えてこないものです。
すなわち水平方向です。
それが進化の水平伝播です。
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By Dr. Smets and perhaps others - Barth F. Smets, Ph.D., with permission, Attribution, Link
アダム・スミス的な世界が実は広がっているのです。
それはDNAにおいてもです。
自分が得意な事に関するDNAをおすそ分けしている細菌たちがたくさんいるのです。お互いにお互いのDNAをシェアして、一気に進化します(そうやって抗生剤に生き残った細菌たちは闘ったことのない抗生剤に対しても耐性も持ちます)。
そしてより大きなポイントは、、、我々自身のDNAだけでは我々のすべての機能を説明できないということです。
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かつてのセントラルドグマはこうでした。
DNAがすべての中心にあり、そこから情報が切り出され、メッセンジャーボーイならぬメッセンジャーRNAが情報を運び出し、運び屋のトランスファRNAが読み出した情報をもとにアミノ酸を織り上げていき、それがタンパク質となっていくというものでした。
DNAは神聖不可侵であり、核の奥底に鎮座しましていると思われていたのです。
情報はDNAから世界へ広がるのです。
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By Boumphreyfr - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
リボソームは、一連の伝令RNA(en: Messenger RNA)を読み取り、転移RNA(en: Transfer RNA (TRNA))に結びついたアミノ酸から所定のタンパク質を組み立てる。
しかし、今はそう考えられていません。
逆転写酵素によってDNAに情報が新たに書き込まれることも分かっていますし、インフルエンザのように細胞内で新たにRNAが転写されることもあります。
しかし、それだけではなく機能ベースで考えると、共生関係にあるもの同士はいわばDNAをシェアしているのです。
我々は自分の身体を自分のDNAが創り出した王国だと思っていますが、それは物事の半面しか観ていません。いや半面ではなく、3分の1,いや10分の1,100分の1かもしれません。
たとえば、ヒトゲノムにあるおよそ2万のタンパク質コードの実に100倍の遺伝子が細菌によってもたらされています。
その遺伝子がなければ、我々は免疫も消化も心の安定も(というかほぼすべての機能が)おぼつかないのです。
我々の生体にとって微生物との共生というのはあまりにも当然なので、見過ごされがちですが、極端な例から考えると、この共生関係がはっきりと見えてきます。
極端な例とは、たとえば無菌マウスです。
無菌マウスと言えば、、、、マクベスですね。
For none of woman born shall harm Macbeth
(なぜなら、女から生まれたものは誰であれマクベスを傷つけることができないからだ)
マクベスの前段に、大胆不敵であれと言われ、なぜなら女から生まれた者は誰もマクベスを傷つけられないから、と言われるシーンがあります。これに気を良くしたマクベスは自分が殺されることないと確信します。
しかし、この「女性から生まれた(Woman born)」とは経膣分娩のことを指します。帝王切開によって生まれたマクダフはこのWoman bornではないということです。まあ非常にうまい伏線です。
無菌マウスはこの帝王切開によって生まれます。
経膣分娩というのはすべての動物において母から子への細菌叢の移植なのです(出産に際して、新生児用に細菌叢を変えるとも言われます)。
それを避けるために、無菌マウス作成のためには帝王切開で生みます。
なぜ無菌マウスを創るかと言えば、菌を移植させたときのその菌の効果を調べるためです。
無菌マウスが異常事態であるように、我々もまた無菌ではいられません。
どれくらいの種類の生物たちと共生しているかと言えば、、、、、正直、想像を絶します。
ちなみに分類学で考えると、人間をはじめとする脊椎動物はすべて脊索動物門に分類されます。
生物の分類は上からドメイン、界、門、網、目ときて科、属、種と見知った分類に続きます。
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ちなみに人間をこの分類で表すとw
動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト族 ホモ・サピエンスとなるそうで、、(細かな亜門、亜属とかは省いています)。
動物はほとんどはわずか9つの門に属し、植物ですら12の門の中に含まれます。
しかし、細菌は今の段階で約50の門があることが分かっており、人間の腸の中には驚くべきことに12の門の微生物が生息しています(植物と同じ、動物よりもはるかに多い門の数です!)
おそるべき、おそるべき多様性です。
余白がなくなってきたので結論だけを天下り式に言えば、コッホの盲点とは、コッホの4原則がもたらした盲点のことです!!
1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
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これは非常に論理的で素晴らしいシステムなのですが、問題が一つあります。
それは培養できない微生物が盲点に隠れるということです。
たとえば腸内細菌のほとんどは嫌気性です。なので培養が非常に難しいのです。
培養できる微生物は有害なものが多く、そこから微生物は悪というイメージがついてしまいます。
それが抗菌ブーム、そして抗生剤ブームを生みます(抗生剤はブームと言って良いのか分かりませんが、大量に使用されています。最も使用されているのは、畜産における肥育としてでしょう)
しかし森林と同じで、腸内細菌叢も重要なのは多様性です。
(森林と言えば「混ぜる、混ぜる、混ぜる」の宮脇 昭先生を思い出します。本来の植生を活かし3000万本の木を植え、自然林を復活させた人です。宮脇先生のポイントも多様性でした)
その世界では魔女たちが「きれいはきたない、きたないはきれい」と歌っています。
取り急ぎ、本日の菌活セミナーお楽しみに!!!
きれいはきたない、きたないはきれい
これは綺麗に韻を踏んでいるのは言うまでもありません。
Fair is foul, and foul is fair.
(フェアはおなじみですし、プロレスや野球でもファールは良く使います)
「きれいはきたない、きたないはきれい」とは、
A = ¬A
のカタチの命題で、それだけでも十分に萌えますが(笑)、それはまた別の話し。
先日の寺子屋リニューアル版「分子生物学」では、ダーウィン進化論の盲点についてやりました(*^^*)
もちろんダーウィンの進化論は素晴らしい発見であり、生物学を激変させた金字塔に間違いはありません。
しかし、それは間違っているのです(いやいやインテリジェント・デザインに戻るわけではありません)。
正確に言えば、ダーウィンの進化論は正しいがゆえに深刻な盲点を生じさせます。

と言ってもシンプルな話しです。
進化は時間軸に沿ってのみではないということです。
ダーウィンの進化論を一言で言えば、突然変異と自然淘汰です(一言なのか?)。
Mutation(ミューテーション)とNatural Selection(ナチュラル・セレクション)ですね。
まずは突然変異です。
突然変異というのは、DNAのコピーのエラーのことです。それが形質にまで影響を与えたときに突然変異と言います。
完璧な絶望が存在しないように、完璧なコピーは存在しません。
生命現象のポイントは自己複製と自己保存です。その複製には必ず必然的にミスが生じます。
なぜでしょう??
シンプルな原理が背景にあり、それを我々は不完全性定理と読んでいます。
完璧なコピーが不可能であっても、問題はありません。エラーは排除されるからです。
何重にもチェック機構があり、エラーは慎重に排除されます(これはたとえば我々の中の免疫細胞も同じです。ほとんどの免疫細胞はセレクションによって排除されます)。
ですので、DNAのコピーミスが顕在化することはまずないのですが、しかしそのチェック機構をかいくぐって、形質として現れて、なおかつそれがなぜか環境の激変に適応的だったとき、、、そして何世代も生き残った場合において、それを「進化」と呼びます。
これがダーウィンの進化論です。
進化は親から子へという垂直方向に存在するというのが我々の中心的命題です。
生物学も他の学問と同様に形式化の洗礼を受け、数学を取り入れます。
牧歌的な観察と仮説の学問から、数学的な発想を要求されるようになるわけです。
すると、垂直方向だけでは足りないことが分かります。
何が足りないかと言えば、時間が圧倒的に足りないのです。世代を経て、少ない確率で進化するとしたら、そしてそれが環境に適応するとして、、、、時間がいくらあっても足りません。
しかし生命はそんな計算を無視するかのように、豊穣に進化しています。
ここで我々に欠けているのは何だったのでしょう??
垂直方向の進化だけで、観ていては全く見えてこないものです。
すなわち水平方向です。
それが進化の水平伝播です。

By Dr. Smets and perhaps others - Barth F. Smets, Ph.D., with permission, Attribution, Link
アダム・スミス的な世界が実は広がっているのです。
それはDNAにおいてもです。
自分が得意な事に関するDNAをおすそ分けしている細菌たちがたくさんいるのです。お互いにお互いのDNAをシェアして、一気に進化します(そうやって抗生剤に生き残った細菌たちは闘ったことのない抗生剤に対しても耐性も持ちます)。
そしてより大きなポイントは、、、我々自身のDNAだけでは我々のすべての機能を説明できないということです。

かつてのセントラルドグマはこうでした。
DNAがすべての中心にあり、そこから情報が切り出され、メッセンジャーボーイならぬメッセンジャーRNAが情報を運び出し、運び屋のトランスファRNAが読み出した情報をもとにアミノ酸を織り上げていき、それがタンパク質となっていくというものでした。
DNAは神聖不可侵であり、核の奥底に鎮座しましていると思われていたのです。
情報はDNAから世界へ広がるのです。

By Boumphreyfr - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
リボソームは、一連の伝令RNA(en: Messenger RNA)を読み取り、転移RNA(en: Transfer RNA (TRNA))に結びついたアミノ酸から所定のタンパク質を組み立てる。
しかし、今はそう考えられていません。
逆転写酵素によってDNAに情報が新たに書き込まれることも分かっていますし、インフルエンザのように細胞内で新たにRNAが転写されることもあります。
しかし、それだけではなく機能ベースで考えると、共生関係にあるもの同士はいわばDNAをシェアしているのです。
我々は自分の身体を自分のDNAが創り出した王国だと思っていますが、それは物事の半面しか観ていません。いや半面ではなく、3分の1,いや10分の1,100分の1かもしれません。
たとえば、ヒトゲノムにあるおよそ2万のタンパク質コードの実に100倍の遺伝子が細菌によってもたらされています。
その遺伝子がなければ、我々は免疫も消化も心の安定も(というかほぼすべての機能が)おぼつかないのです。
我々の生体にとって微生物との共生というのはあまりにも当然なので、見過ごされがちですが、極端な例から考えると、この共生関係がはっきりと見えてきます。
極端な例とは、たとえば無菌マウスです。
無菌マウスと言えば、、、、マクベスですね。
For none of woman born shall harm Macbeth
(なぜなら、女から生まれたものは誰であれマクベスを傷つけることができないからだ)
マクベスの前段に、大胆不敵であれと言われ、なぜなら女から生まれた者は誰もマクベスを傷つけられないから、と言われるシーンがあります。これに気を良くしたマクベスは自分が殺されることないと確信します。
しかし、この「女性から生まれた(Woman born)」とは経膣分娩のことを指します。帝王切開によって生まれたマクダフはこのWoman bornではないということです。まあ非常にうまい伏線です。
無菌マウスはこの帝王切開によって生まれます。
経膣分娩というのはすべての動物において母から子への細菌叢の移植なのです(出産に際して、新生児用に細菌叢を変えるとも言われます)。
それを避けるために、無菌マウス作成のためには帝王切開で生みます。
なぜ無菌マウスを創るかと言えば、菌を移植させたときのその菌の効果を調べるためです。
無菌マウスが異常事態であるように、我々もまた無菌ではいられません。
どれくらいの種類の生物たちと共生しているかと言えば、、、、、正直、想像を絶します。
ちなみに分類学で考えると、人間をはじめとする脊椎動物はすべて脊索動物門に分類されます。
生物の分類は上からドメイン、界、門、網、目ときて科、属、種と見知った分類に続きます。

ちなみに人間をこの分類で表すとw
動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト族 ホモ・サピエンスとなるそうで、、(細かな亜門、亜属とかは省いています)。
動物はほとんどはわずか9つの門に属し、植物ですら12の門の中に含まれます。
しかし、細菌は今の段階で約50の門があることが分かっており、人間の腸の中には驚くべきことに12の門の微生物が生息しています(植物と同じ、動物よりもはるかに多い門の数です!)
おそるべき、おそるべき多様性です。
余白がなくなってきたので結論だけを天下り式に言えば、コッホの盲点とは、コッホの4原則がもたらした盲点のことです!!
1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

これは非常に論理的で素晴らしいシステムなのですが、問題が一つあります。
それは培養できない微生物が盲点に隠れるということです。
たとえば腸内細菌のほとんどは嫌気性です。なので培養が非常に難しいのです。
培養できる微生物は有害なものが多く、そこから微生物は悪というイメージがついてしまいます。
それが抗菌ブーム、そして抗生剤ブームを生みます(抗生剤はブームと言って良いのか分かりませんが、大量に使用されています。最も使用されているのは、畜産における肥育としてでしょう)
しかし森林と同じで、腸内細菌叢も重要なのは多様性です。
(森林と言えば「混ぜる、混ぜる、混ぜる」の宮脇 昭先生を思い出します。本来の植生を活かし3000万本の木を植え、自然林を復活させた人です。宮脇先生のポイントも多様性でした)
その世界では魔女たちが「きれいはきたない、きたないはきれい」と歌っています。
取り急ぎ、本日の菌活セミナーお楽しみに!!!