フラットランドという印象的な物語の中で最も注目すべきシーンは3次元の存在が2次元空間(フラットランド)を通過する場面でしょう。
これは生命現象の不思議をあますことなく、直感的に理解させてくれます。
生命現象とは多次元世界の住人が、ある側面から見れば、物理的現実世界という奇妙な情報空間を通りすぎる、つかの間の現象です(「つかの間」と言っても、時間は物理空間の位置のことであり、他の空間では定義できないものです)。
フラットランドというのは、エドウィン・アボット・アボット著作の小説です。
2次元世界の住人たちを中心に多次元世界の住人の生活を描いています。
エドウィン・アボット・アボットという名前が面白いことにエドウィンA・Aなので、Aの二乗(スクエア)とご自身が言っているのがお茶目です。事程左様(ことほどさよう)に数学的な物語ですし、数学宇宙の内側から世界を眺められる作品です。
欧米では(おそらく)誰もが知っている作品なのですが、日本での知名度はそれほどありません。
たとえばリサ・ランドールなども5次元について語るときに、フラットランドについてさらっと言及しています。
アリスや聖書を注釈無しに引用するように、フラットランドもそのような扱いです(お馴染みのブライアン・グリーンやイアン・スチュアートも)。
*著者名のところにBy A Squareとあります!
*そして星型を包む正五角形がここにも!!
ちなみに星型の中央部は正五角形です。正五角形の中にはまた五芒星が書け、その中心は再び正五角形です。すなわち五芒星はフラクタルなのです。
多次元ということを理解するときには、いや他のすべてにおいて言えますが、全体像を理解しようと思ったら、シンプルなモデルに還元するのが一番直感的です。
5次元を理解しようしたら、1次元や2次元からはじめることです。
とりあえず、我々が2次元の世界の住人だと考えてみましょう。
とすると余談ながら、消化器は我々のそれとは違い、袋状でしょう。もし筒状にしようとしたら、身体は真っ二つに分かれてしまいます。
ますます余談ながら、神様が人間を創ったとしたなら、お正月にお餅で窒息死するような気管と食道の交差というありえない構造的問題をなぜお許しになったのでしょう(*^^*)
おそらく神様は物理空間の次元数を間違えたのだと思います。もしくは過大評価なさっていたか。
神様が想定した物理空間は十分に多次元だったので、気管と食道は交差するはずもなく、本当は別々になるようにデザインしたのに、3次元に写像したら重なってしまったのだと思います。ケアレスミスですね。
まあ、ますます余談ながら、同様に他の3つの力はこの4次元空間にのみ働き、4つ目の重力だけは次元をまたがって滲出してしまうので、驚くほど弱いというのがリサ・ランドールたちの仮説です。それを映画化したのがインターステラー。そしてそれを簡潔に詩に書いたのが谷川俊太郎さんです。
*愛とは次元を超える力、すなわち重力であるというのが、インターステラーの裏テーマです。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である(谷川俊太郎『二十億光年の孤独』)
*当時の宇宙論では、宇宙のサイズは20億光年でした。
空間のひずみが重力とはアインシュタインの一般相対性理論の結論です。
アインシュタインはこれらをまとめて「恋に堕ちるのは重力のせいとは言えない」と言いました(*^^*)
それはさておき2次元世界の住人にとって、3次元世界の存在はどう見えるのでしょう?
2次元の世界に3次元の球体が通過することを考えましょう。
これはお馴染みの話しだとは思うのですが、きわめて味わい深い話しでもあります。
最初は球体と平面の接点から始まります。
すなわち小さな点、小さな染みが二次元世界に突如として現れます。
その染みはどんどん大きくなり、だんだん円を成していきます。そのまま大きくなり、球の直径と同じ円が出現したら、、、、そこからまた円は小さくなっていきます。そして最後はまた染みとなり、消えていきます。
これは人間の一生のメタファーでもあります。
受精卵から始まり、体細胞分裂し、胎児が形成され、産道を通過して新生児、幼児、児童と系統発生を個体発生の内で繰り返し、成獣(成人)となり、あるときからしぼみ始めます。
円は小さくなり、身体も小さくなり、あるときその活動は不可逆的に止まり、最後の一つの細胞がおそらくは火葬場の火で燃やされて死滅して、この奇妙な空間での存在を終えます。
しかし、それはひとつの3次元(もしくは時間を含めた4次元空間)の写像でしかありません。
我々は2次元空間を通過する球体の影を2次元人として観ているだけです。それが肉体です。
3次元空間の球体は、2次元における円そのものではなく、我々も肉体そのものではありません。
昔の人は球体にあたる部分を魂と言いました。我々は情報と見做します。
(アリストテレスは呼吸(Ψυχή:Psyche)と言いました)
情報が物理空間というひとつの情報空間の系を通過しているときに、物理空間内部では肉体に見えるのです。
しかしそれは球が、二次元空間においては円に見えるのと同じです。
影でしかありません。
では、この魂は実体なのでしょうか?
3次元空間における球体がプラトンの言うイデア(いみじくもイデアとはカタチという意味です)であり、絶対的な存在なのでしょうか?
いやいや我々が少なくとも理解する限りでは、3次元の球体もまた何かの影でしかありません。
次元の断層は深すぎて、お互いの世界は干渉することがないのですが、しかし生命現象のように(そして間違って2次元を通過してしまった球体君のように)2つの世界をまたがって存在してしまうような現象もあります。
鬼も式神も別な次元に存在し、しかしそれは明らかに我々に影響を与えます。
鬼や式神がメタファーでしかないと考えるのはひとつの態度ですが、鬼や式神がメタファーであるのは、その言葉ゆえです。
言葉は世界の不完全な写像です。もちろん言葉自体はメタファーです。
しかしそれが指し示そうとしているものはメタファーではありえません。
リンゴという言葉はメタファーでも、リンゴ自体は物質です。鬼も同様です(物理的実体をもたないだけで、それ以上に実在性が高いのです)(我々は「常識」や慣習や法律や「空気」は信じるのに、鬼や神をバカにします。どちらも人が媒介し、システムはひとりで暴走します)。
シニフィアンがメタファーであって、シニフェはメタファーでは無いのです(いや、より高次な次元のメタファーであるという主張はあっても良いのですが)。
我々が2次元の(もしくは3次元でも4次元でも)ちっぽけな世界から飛び出そうと思ったら、赤の女王がいみじくも語ったように、信じられないことを信じ込み、ありえないことをありうると確信するところからスタートするしかないように思います!
「まだお稽古が足りないのね」とクイーン。「わたしがあなたの年ぐらいだったころには、毎日三十分はお稽古しましたよ。そう、朝ごはん前に、ありえないことを六つも信じたことだってあります。」(鏡の国のアリス(角川文庫))
寺子屋パラダイム論でもやりますが、科学ですら信仰と同じで、信じることからしか始まらないのです。
アインシュタインは友人の死に際して、こう言いました。
Now he has departed from this strange world a little ahead of me. That means nothing. People like us, who believe in physics, know that the distinction between past, present, and future is only a stubbornly persistent illusion.
物理学を信じている者ですら、過去現在未来の区別は頑固に離れない幻想だと見做しているのですから、我々もまた球体がつかの間、通過する二次元世界を楽しみましょう!!
そして本来の姿を思い出しましょう!
*方程式は永遠です!
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*物語の世界から来て、物語の世界へ戻っていく魂を描いた傑作だと思います。
物理的現実世界の存在は忘れられてしまうものの、物語は永遠であることを理解していたジャッキーによる英雄譚の総仕上げです。
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フラットランド(2次元世界)からの手紙 〜万有引力とは ひき合う孤独の力である〜 鬼神の実在性
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