紅茶にマドレーヌを浸して、過去を追想するという壮大な叙事詩のような20世紀を代表する小説と言えばマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」ですが、彼の言葉に神秘(mystery)に関する次のようなものがあります。
と、その前にあまりに有名なマドレーヌをひたした紅茶のくだりです。
そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。(プルースト「失われた時を求めて」第1巻p.74)
*紅茶にひたしたマドレーヌという味覚と嗅覚、そして食感という触覚、そして視覚と五感をフル活用することで、脳は過去の臨場感を立ち上がらせます。
この感覚というのはオルダス・ハクスリーの「知覚の扉」を思わせます。
このようないわゆる神秘(的な)体験というのは、セクシャリティなどと似ていて、それ自身はきわめて凡庸です。しかし、本人にとっては強烈で絶対的な体験です。
だからこそ、ひめやかに行われる必要があるのです(まさにタントラヨガの物言いのようですが、カバラにも全く同じ内容の記述があります)。何が行われているかではなく、いかに隠されているかが重要ということです。
まあ、それはさおてきプルーストの言葉です。
Mystery is not about traveling to new places but about looking with new eyes. ーーMarcel Proustーー
(神秘とは、新しい土地へ行くことではない。新しい眼差しで見つめるということである)
神秘についての非常に簡潔で、力強い言明です。
この言い方にインスパイアされるならば、「密教とは、新しい書物を読むことではない。新しい目で眺めるということである」とでもなるでしょうか?
カバラや密教というのは、新たな書物を紐解くことでも、新しい知識を得ることでもなく、新しい技術を伝授されることでもありません。そうではなく、これまでとは全く違った目でおなじものを観ること、となるでしょうか。
この感覚はきわめて重要だなと感じます。
チルチルミチルの「青い鳥」の物語も、一見すると「やっぱり家が一番、日常の中に何気ないことの中に幸せはある」、という風に読み取れないこともありませんが、それは早計かと思います。
冒険を経て、「新しい眼差しで」カゴの中の青い鳥をあたら目ではじめて見つめることができて、そして再発見できたのです。
場所が変わったのではなく、チルチルミチル自身が決定的に不可避的に変わったからこそ、目の前にあったのにもかかわらず気付かなかった幸福に気づけたのです。
それは誰かが指摘して発見できるものではなく、自分が苦難の旅の末に再発見するしかないのです(今まで知っていたものを、別の視点で観るという意味での「再発見」です)。
新しい知識、新しい技術、新しい考え方、新しい情報を追い求めるのは「青い鳥」を追い求めるのと似ています。
もちろん、それ自体は無意味なのではなく、意味があるのは「冒険」のほうであるということです。新しい眼差しを得るためには、死に瀕するような体験も、命を賭けた挑戦も、驚くような体験も必要になるかと思います(神話学で言えば、ドラゴンを倒すための闘いですね)。
冒険を通じての自己の変容、進化が大切であり、新しい道具を手にするというよりは、むしろどんどん道具を捨てていき、身一つ裸一貫となり、そして身体すら捨てていくことが、密教の道なのではないかと思います。
そのときの道しるべとして、プルーストの「Mystery is not about traveling to new places but about looking with new eyes.」は非常に役立ちます。
*幸せの青い鳥はすぐそばにいるのではなく、目の前にいるのに見えないのがポイントです。新しい眼差しを獲得しない限りは、目の前にあっても見えず、見えないために存在しないのです。
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「密教とは、新たな書物を紐解くことではない、新たな目で世界を観ることである」
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