ドラムの音が耳に残りました。
*映画セッション(Whiplash)はオススメです。何度も体験したくなります。
昨日は新宿歌舞伎町のコマ劇場跡地のTohoシネマのこけら落としでした。
お目当ては昨日公開されたセッション(Whiplash)です。
ドラムのビートが心地よいものです。我々は寝ても覚めても、心臓のビートが刻まれており、胎児のときには母親の心音を子守唄にしています。
セッション(Whiplash)は想像以上の作品でしたし、同じくドラムの音が超印象的な(全編ほぼドラムだけでの演奏で、そしておそるべきワンカットで構成される)バードマンも。どちらもNYつながりであり、どちらもドラムつながりです。そしてどちらもインディーズな匂いがたまりません。
昨日は寺子屋「モーゼ、フロイト、ユング」でしたが、かなりのボリュームを流しこみつつ、そしてムチ打ちつつ(Whiplash)、壮絶な内容だったかと思います。
(鞭打つと言えば、バレエ講座がいよいよスタートします。
ちなみに女性限定、ポアントでヴァリエーションを踊れることが受講要件です。5月から月1回ペースでスタートします。本気で踊れるダンサーを目指します。お楽しみに!)
*バレエ講座再開!!
昨日の寺子屋のテーマは謎解きでした。
謎と言えば殺戮のミューズたる魅惑的なスフィンクスの呪いが有名です。そしてそれを見事に解いてみせたオイディプス王。
*セクシーなスフィンクス。いつの世も男女の仲の謎解きは命がけです。ギュスターヴ・モローの作品です。
オイディプス王に対して預言者であるテイレシアスが「謎解きはあなたの最も得意とする藝ではなかったのか?」と挑発するシーンがあります。オイディプス王の物語自体が壮大な推理小説です。まずは先王の殺人者を探そうとする試みです。
しかし、すぐに犯人は判明します。テイレシアスによって、犯人は探偵であるオイディプス王その人であることが示されます。
オイディプス王としてはもちろん一笑に付しますが、次第に状況がテイレシアスの言ったとおりであることに気付き、、、というのが最初の推理小説にして、稀代の悲劇であるオイディプスの物語です。
テイレシアスは真理を知っており、まあ真理というか事実を知っており、すなわち犯人を知っています。そしてしかし知っているだけでは力になりません。彼はこう言います。「ああ、なんと恐ろしいことか、知って何の役にも立たぬのに、それを知る知恵を持っているということは!」
重要なのは知識ではなく、その探求であり、謎とその解決のプロセスに力が宿ります。
とは言え、残酷な真相が明らかになったあと、オイディプス王は子供たちにこう叫びます。
「お前らの父は自分の父親を殺した男、しかも自分を生んでくれた母親に自分の子を生ませた男、その己れ自身が生まれた腹からお前らを作った男ではないか!」(ソポクレス「オイディプス王」)
これはわかりやすいオイディプス王の自己紹介です。そしてフロイトのエディプス・コンプレックスはこのオイディプス王の悲劇に由来します。
父を殺すと言えば、祭司である王を殺すのがフレイザーの金枝篇でした。フロイトもフレイザーには言及しています。王権の移譲にあたっては新しい王が古い王を文字通り殺すのです。そしてこのモチーフがフロイトにおいては神であるモーセ殺しにつながります。
*ターナー「金枝」
*「たれかターナー描く「金枝」という絵を知らぬ者があろう。(フレイザー「金枝篇」冒頭)」
*「あの松を見たまえ、幹が真直(まっす)ぐで、上が傘(かさ)のように開いてターナーの画にありそうだね」(夏目漱石「坊っちゃん」)
(引用開始)
この聖なる森の中には一本の樹が茂っており、そのまわりをもの凄い人影が昼間はもとより、多分は夜もおそくまで徘徊するのが見うけられた。手には抜身の剣をたずさえ、いつなんどき強襲を受けるか知れないという様子で、油断なくあたりをにらんでいるのであった。彼は祭司であった。同時に殺人者でもあった。いま彼が警戒をおこたらない人物は、遅かれ早かれ彼を殺して、その代りに祭司となるはずであった。これこそこの聖所の掟だったのである。祭司の候補者は、祭司を殺すことによってのみその職を継承することができ、彼を殺して祭司となった暁には、より強く老獪な者によって自分が殺されるまでは、その職を保つことを許されるのである。
この不定的な享有権によって彼の保つ地位は、王の称号をも併せ有していた。(引用開始)(フレイザー「金枝篇」ほぼ冒頭です)
*フレイザー
祭司であり、殺人者であり、そして王なのです。
(関係ありませんが、マクベスも先王を殺して王様になりました。オイディプス王も同様です)
その手は血に濡れています。血塗られた王はチェーザレ・ボルジアだけではないのです(ヴァレンティノ公は果たして王にはなれませんでしたが)。
王、神、そして父親は精神分析学で言えば、というかフロイトに言わせれば、すべてスーパーエゴであり、たえず心の中で囁き命令をする存在です。すなわち、映画「バードマン」(バットマンではなく、バードマンです。バードマンを演じて、そしてマイケル・キートンが演じています)におけるバードマンがスーパーエゴです。
ここで、ニーチェの狂人の叫びが聞こえてきます。神を殺したのは我々だ、と。
そしてフロイトはそのとおり我々は神を殺した、その神とはモーゼその人であると言います。
モーゼは殺され、結果としてモーゼ教はすたれたものの、貞子のように何度殺しても復活してくる。それがユダヤ教というのがモーゼの理解です。
集団心理学にも抑圧と回帰のモデルが使えるということです。どうやって記憶が保持されるかと言えば、そもそも無意識というのは集合的であるというのがフロイトの仮説です。すなわちこの点でフロイトとユングは一致しています。では、なぜ抑圧されたイクナートンの一神教はエジプトにおいて回帰しなかったのかについては語られていません。
抑圧と言えば、ユングの若きロシアの患者にして愛人であるザビーナ・シュピールラインも性的な抑圧がヒステリーという形で回帰してきます。
*ユング、フロイト、そしてザビーナの美しい三角関係を鮮やかに描いた映画「危険なメソッド」です!キーラ・ナイトレイの怪演が光ります!
ユングがフロイトにこう書きます。
(引用開始)
あなたを退屈させるのを覚悟しつつ、最近の私の衝撃的体験を告白せねばなりません。私は現在、あなたの方式で、ヒステリー患者を扱っています。重症の二〇歳のロシア人女子学生、六年前から止んでいます。(引用中断)(一九〇六年一〇月二三日 フロイト=ユンク往復書簡 上巻p.29)
フロイトはこう答えています。
*偉大なフロイト様。
(引用開始)
あなたが報告されたロシア女性の件ですが、彼女が女子学生であったのは幸運でした。こうした場合、無教養の人ですと、われわれに扱いにくい面があるからです。報告された排泄と汚染のくだりは、まことに興味深いものがありますが、これには多くの類似例がみられます。(引用中断)
フロイトとユングという偉大な2人の蜜月期の応答はリアルでエキサイティングです。
寺子屋では往復書簡のすべてを扱えないので、さわりとして蜜月期のころの往復書簡と、断絶のころのユングの手紙を引用します。
非常に生々しい対話で二人を知れば知るほど、読むのが楽しくなります。
二人の決別は一種の悲劇であり、この往復書簡はあたかも悲劇に向かって進む戯曲のようです。
(引用開始)
親愛なるフロイト教授!
多少真剣に記してもよいでしょうか?私はたしかにあなたに対して不安定な立場をとっていたことは認めます。しかし、二人の関係を名誉ある、しかもまったく品位のある方式で維持しようという気持をもってきました。私は弟子や患者に接する際のあなたの方法がまちがっていることについて、責任はあなたの注意を喚起します。あなたの策略により、奴隷的な弟子や悪質なやくざ者(アドラー、シュテーケル、それにウィーンに巣食う悪漢の一味)が続出しました。私はあなたのトリックを見抜けるくらいの客観性をもっています。あなたは、ご自分の周辺に各種各様の病的行動をとる者の存在を確認しました。これにより、あなたはまわりの者すべてを、まるで恥じらいながら、自分の欠陥や奇癖を認める坊やや小娘の水準に引き下げました。その間、あなたは常に父親と知って颯爽(さっそう)と上席に鎮座しました。平身低頭した囲繞者(いにょうしゃ)は、だれも予言者であるあなたに反抗しませんでした。(引用終了)
ユングいわくフロイトの策略にり続出した悪質なやくざ者の中にアドラーが挙げられているのが面白いです。そしてユングから見て、フロイトはやはり父であり、予言者です。フロイトは自身をモーゼになぞらえることもあったようですので、この批判はあながち間違っていません(でも、どこが問題なのかは不明ですが。教師なりリーダーなり指導者は父として神として王として振る舞うものなのでw)。
ここには肉声があります。ユングの肉声があり、跳ね返ってフロイトの肉声があります。
彼らは等身大のひとりの人間として、考え、苦悩し、悩み、たまに喜びながら一日一日を生きたのです。
バードマンという映画は全編があたかもワンカットかのように撮られています。映画もテレビもいわば良い所どりの「記憶の自己」として機能しますが、それに対して「経験の自己」を追体験させてくれます。記憶の自己が神の視点になりがちなのに対して、経験の自己はいまこの瞬間だけです。その瞬間の連続しかないのです。
偉人たちを観るとき、我々はあたかも死んだ人間として、終わった人間として見てしまいます。フロイトでも、ユングでも、モーゼでもキリストでも同じです。すべて死んだ人間として扱います。しかし彼らは生きているのです。というか、生きていたのです。彼らが生きていたときは、彼らは生きていたのであり、先の見えない未来に向かって一瞬一瞬自分を賭けて、暗闇に跳躍していました。我々と同様に。
その観点で観るとより深く彼らが理解できると思います。
残酷な運命を生きるオイディプスもまさに一瞬一瞬生きて、最善を求めて、最悪を手にしていきます。しかし、「生きる」ことが大事なのであり、待ち受けている壮絶な不幸というのは、人生におけるワサビのようなものです。
小林秀雄の言葉を思い出します(何度も繰り返して恐縮ですが、すべてを読んでいる人ばかりではないので、再掲します)。初出はこちら!
(引用開始)
アランが、ある著名な歴史家の書いたトルストイ伝を論じたものを、いつか読みまして、今でもよく覚えていますが、ほぼこういう意味のことを書いていた。ここに書かれていた事柄は、一つ一つ取り上げてみれば、どれも疑いようのない事実である。ところが全体としてみると、どうしてこう嘘らしい臭いがして来るか。三途の川をうろついているようなトルストイが現れるか。いや、確かにアランは、三途の川と書いておりました。なぜ、確かな事実を描いたはずなのに影しか描けておらぬのか。トルストイの生涯は、実に烈しく長い生涯であった。まず、己の情熱の赴くままに生きた。次に、すべてを自分の家庭に捧げて生きた。次には、公衆のために。最後には、福音のために。これらの花や実や収穫は、ことごとく私たちの糧である。私たちが食い尽くすことのできない糧である。しかし、彼自身は食い尽くしたのである。彼自身は、花は萎れ、実は落ちるのを見たのだ。彼の命は、もはや取り返しのつかぬ里程標を一つ一つたどったのだ。
(略)
トルストイも私たちと同様、常に未来を望んで掛け替えのないその日その日を前進したのだ。
(引用終了)(pp.110-111 小林秀雄「私の人生観」)
死んだ人としてその人を語るのは「嘘らしい臭い」がするのです。それが事実で構成されていても、死臭がします。
そうではなくフロイトもトルストイもイエスもモーセもそしてアランもみな自分と同じように「常に未来を望んで掛け替えのないその日その日を前進した」として観ることが必要です(というか、実際にそうである以上は、それ以外で観るのは虚偽ということになります。だからこそ嘘らしい臭いがします。
フロイトの「モーセと一神教」はナチス下のウィーンで書かれたときは筆が重く、発表する気もない原稿を書き連ねていました(そう言えば、デカルトもニュートンもオイラーも発表する気がないか、死後に公開される前提で書いていました。すなわち生前には発表しない、と)。それに対して、イギリスへ亡命したあとは筆がノリます。
フロイトも人間であり、その社会との応答関係の中で生きています。それが原稿には反映され、それも含めてフロイトの全人格と出会うつもりで、そしてその人格が刻々と時間の流れの中で変化していくことを、我々は観るべきかと思います(平たくいえば、それこそが加速学習の要諦であり、謎解きの肝であり、人生の意味ですw)。
我々も自分を自分のゴールの檻に閉じ込めて、自分をもっとムチ打ちましょう。
肉体の牢獄から逃れる方法は、より抽象度の高い牢獄に自ら喜んで入ることです。
その牢獄から自由になることが自由であるというのは誤解であり、ただ動物の自由が与えられるだけです。
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