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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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人間と記号表現の関係において、少しでも変更をほどこせば、、歴史の全行程が変わってしまう(ラカン)

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ラカンがこう語っています。

ジャック・ラカンと言えば、ある種の人びとには軽い興奮をもたらす存在でしょう。

フランスの哲学者であり、精神科医からフロイトの精神分析に傾倒し精神分析家になり、フロイトの精神分析を構造主義的に発展させた人として知られます。


*往年のアイドルであり、スターのようなジャック・ラカン

ラカンと言うとフランス人であり、哲学者であり、精神科医で精神分析家、そして構造主義の立役者です。

ラカンはソクラテスを思わせます。ソクラテスもまた書くことを拒否し、語ることのみの人でした。書き言葉をソクラテスは信じなかったのです。近代言語学の父であり、構造主義の生みの親とも目されるソシュールも同様です。彼は生前、本を出版していません(大著「一般言語学講義」は死後の出版です。そしてタイトルでもわかるようにこれは大学の講義です。すなわち語られた言葉を書き言葉に起こしたものです)。

そのラカンがこう語っています。

(引用開始)
人間と記号表現の関係において(この場合は釈義の手続きにおいてだが)、少しでも変更をほどこせば、人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正されることになって、歴史の全行程が変わってしまうのである。
(引用終了)

ざっくりと言えば、言語の定義を変えると歴史のすべてが変わってしまう、というようなことです(ざっくりすぎますが)。

この引用は孫引きでスーザン・A・ハンデルマン「誰がモーセを殺したか」の冒頭にあります。


*モーセとは誰か?誰がモーセを殺したのか?(本当に角が生えていたのかw)


そのスーザン・A・ハンデルマン「誰がモーセを殺したか」にはこうあります。

今回の寺子屋「モーゼ」のいわば中心命題がここにあります。この命題の真偽値はともかくとして(判定のしようもないので)、この命題は面白いのです。面白いことをしましょう!


(引用開始)
誰の目にもこの上なくはっきりと世俗化したことが判るユダヤ人に対してすらユダヤ的な背景がなんかの影響を与えているといったことを証明しようとすることは、困難で複雑な作業となる。この問題を脇に置いたままにしておくにしても、フロイトやデリダやブルームといったもっとも最近の、もっとも影響力を持つ(ユダヤ系の)思想家たちとラビ的な解釈様式の間には、著しい、深い〈構造上〉の親近性が存在するという事実は以前として残る。事実、この私の著作が生まれたきっかけは、精神分析学はミドラーシュという釈義の伝統に、つまり自由連想に近似する方法を通して聖書のテキストの意味を探るというラビ的解釈の方法に属するものであるというラカンの発言に私が偶然に出会ったことによって与えられたのである。フロイト自身、彼の夢解釈の方法を他のすべての方法から分かつのは、彼が夢を「聖なる記録」として扱い、もっとも些細な、もっとも取るに足らない細部に意味が隠されていると想定した点であることを認めた。(引用終了)


ここで語られていることはシンプルであり、そして非常に面白いです。

ユダヤ系の思想家たちとラビ的な解釈様式は似ているということです。

ユダヤ系思想家=ラビ(ユダヤ教指導者)

どこが似ているかと言えば、そのテキスト分析の手法です。精神分析はミドラーシュに似ていると言います(正確には「属する」)。

精神分析学=ミドラーシュ(聖典の釈義の手法)

ここで翻って思い出すのは、フロイトが精神分析の世界にユダヤ系ばかりであることに悩んだことであり、それゆえユングというユダヤ人ではないそして非常に自分の思想を理解する人物を歓迎したということです。フロイトがあわててユングを後継者に指名したのも(もちろん彼の能力を高く評価したゆえですが)、ユングがユダヤ人ではなかったことは大きいと言えます。


*フロイト様

国際精神分析教会の初代会長がフロイトではなく、ユングであるのは、世界に対して精神分析はユダヤ系だけのものではないことを示すパフォーマンスでもありました(精神分析を創始したのがまぎれもなくフロイトである以上は本来はフロイトが会長であるべきでしょう)。

この引用で注目したいのは最後の一節です。
フロイト自身、彼の夢解釈の方法を他のすべての方法から分かつのは、彼が夢を「聖なる記録」として扱い、もっとも些細な、もっとも取るに足らない細部に意味が隠されていると想定した点であることを認めた。
フロイトが認めた内容はともかくとして、「もっとも些細な、もっとも取るに足らない細部に意味が隠されていると想定した」が重要です。これは言い換えれば「神は細部に宿る(God is in the detail)」ということです。

そしてこれは神は細部にかくれんぼしているという意味ではないのです。
(神のかくれんぼというとニーチェの「神は死んだ」を思わせます。『「神さまが行方知れずになっというのか?」とある者は言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。「それとも神さまは隠れん坊したのか? 神さまはおれたちが怖くなったのか? 神さまは船で出かけたのか? 移住ときめこんだのか?」ーー彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。』この嘲笑する人びととは我々であり、少なくとも僕は自分をそこに見ます)

神は細部に宿るとは、「人間と記号表現の関係において(この場合は釈義の手続きにおいてだが)、少しでも変更をほどこせば、人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正されることになって、歴史の全行程が変わってしまうのである。」というラカンの意味において生きてきます。

少しでも変更をほどこせば、すべてが一変するのです。

存在論的網の目(Ontological network)を考えると、その1本の線が変わることで全体が一変するということです。

部分的な修正ではなく、部分の修正は全体の相貌を一変します。

その端的な例として、アインシュタインを寺子屋では引きました。


*アインシュタインとローレンツ。アインシュタインは歴史の全行程を変え、ローレンツは一部を修正することで(ローレンツ変換)糊塗しようとしました。


アインシュタインは「誰の目にもこの上なくはっきりと世俗化したことが判るユダヤ人」かもしれず、もしかしたらその「ユダヤ人に対してすらユダヤ的な背景がなんかの影響を与えている」良い例なのかもしれません(僕自身はこのラビ的手法がユダヤ人にのみ独占されるというよりは、普遍的に獲得できる一つの能力だと思っています。ただユダヤの伝統がその能力を増大させるような教育システムを持っていたかもしれないとは思いますが)。

脱線につぐ、脱線ですが、このユダヤの教育システムについて、少し言及します。
ユダヤ人以外で、唯一のヘブライ文学博士であり、ヘブライ大学を卒業したはじめての日本人である手島佑郎氏は「ユダヤ人はなぜ優秀か」の中でこう書いています。

(引用開始)
ユダヤ人は学問することを「ミシュナー」と呼ぶ。「ミシュナー」とは反復・復習を意味する。目で読み、口で唱え、耳で自ら聞き、その作業を何度も何度も繰り返し、ついにはテキストを全部暗唱できるようになるまで覚えてしまうことなのである。(pp64-65)

ユダヤ人の教育における最大の特長は、幼児教育の徹底と、一生を通じて学問を怠らないという生涯教育との二点であろう。(p.66)

そのユダヤ人の教育だが、これは子供が三歳になった頃から始められる。「ヘデル」と呼ばれる有料の寺子屋、もしくは「ベイト・タルムード・トーラー」と呼ばれる無料の学校に通う。最初は、年長の生徒の側で勉強の雰囲気を身につけることから指導される。そしてヘブライ語のアルファベットの形をしたビスケットを貰ったりして、まず文字を覚えるよう仕向けられ、やがて祈祷書を音読できるようにまで教えられる。
 言ってみれば、昔、日本の寺子屋で論語の素読を口づてに教えこんでいたのと大差ない光景である。ここでは、テキストの意味を理解させることは目的でなく、テキストを、暗誦素読できることが、このレベルでの教育の主眼である。しっかりした記憶力を持たないでは、今後学んでいく事柄が身につかない。(p.67)

ユダヤ人の学習方法は「全身学習法」とでも命名すべきであろうか。全身の器官を使用して勉強を続ける。われわれだと、勉強といえば普通はテキストを黙読し、重要な箇所に赤線・青線を引き、それを抜書きしてノートにまとめるくらいである。そして何とか試験に間に合うように記憶し、試験が終わると共に記憶した事柄の大半は忘却されてしまう。
 前にも述べた通り、ユダヤ人はテキストを目で読み、口で唱え、耳で聞いて、学習する。それも単なる朗読ではない。単調であるが一種のメロディに乗せて、吟詠している。その旋律は、グレゴリアン精華の原形となったシナゴーグ礼拝の詠唱と同じパターンである。彼らは聖書でもタルムードでも、皆その旋律に準じて吟じていく。
 口で抑揚を取る一方、体を前後に、もしくは左右に振ってリズムも取る。そして右手の人差し指でテキストを追っていく。考えられる限りの身体器官を動員し、文字通り全身で勉強に打ち込むのである。目・口・耳の三器官を同時に使用することは、目だけで黙読するよりもはるかに学習効果が高い。(pp.72-73)

(引用終了)(手島佑郎「ユダヤ人はなぜ優秀か」)

というか、「口で抑揚を取る一方、体を前後に、もしくは左右に振ってリズムも取る。そして右手の人差し指でテキストを追っていく。考えられる限りの身体器官を動員し、文字通り全身で勉強に打ち込む」のは、かなり全世界に普遍的なのではないかと思います。
考えられる限りの身体器官を動員して、文字通り勉強に打ち込むのは、院試直前の大学生から、模擬試験前の中学受験生までやっているようにも思えます。少なくとも僕が知っている限りでは、そのような光景が多く見られました。
歩きまわりながら、大きな声で音読しながら、腕をぶんぶん振りながら覚えている姿です。


逆に言えば、優秀な人は上手に全身を使って学習するということでしょう。モーダルチャネルをフルに切り替えながら、脳を使うというのは基本的で重要なテクニックです。

また「赤線・青線を引き」で思い出したのが、小林秀雄だったか、吉本隆明でしたか覚えていないのですが、世界を本に赤い線を引くことで理解しようとしていた、というような文章があり(そして、その世界観を女が破壊したとあります。もちろん良い意味で)、それを読んでまさに自分のことだと思ったことがあります。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修司)ですね。

もう一つ、丸暗記ということについて、中学時代の友人の実験を思い出しました。彼は社会科と数学が得意だったのですが、その社会科についてです。彼はともかく教科書の出題範囲を丸暗記しました。最初は音読、そのうちに赤いマーカーで重要箇所を消して、緑のセロファンで隠して暗記。最後には全文が諳(そら)んじれるほどまでに覚えました。教科書が頭に入っていると、記述式問題にも対応できて良いというのが彼の持論でした。
ただいろいろと試した挙句の彼の結論としては、全文を諳んじないほうがいいということでした。全文を完全に暗記する直前くらいでやめたほうがいい、と。全文を覚えてしまうと、ある種の硬直性が出てしまう、と。これは面白い話でした。
(教科書は試験のために諳んじる必要はないと思いますが、古典は丸暗記が良いと思います。この例はもちろん丸暗記を否定しているわけではありません。ただの思い出話です)


アインシュタインの例に戻りましょう。
アインシュタインがユダヤ的かはともかくとして、彼の手法と在り方はまさに「人間と記号表現の関係において(この場合は釈義の手続きにおいてだが)、少しでも変更をほどこせば、人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正されることになって、歴史の全行程が変わってしまうのである。」かと思います。

アインシュタインは「同時」というよく知られた現象を仔細に見ることで、物理学の(そして哲学の)パラダイムを大きく転換しました。まさに「もっとも些細な、もっとも取るに足らない細部」に大きな意味を見出したのです。

かつての寺子屋「アインシュタインの一般相対性理論」でも引いたアインシュタインの言葉を引用します。

I sometimes ask myself how did it come that I was the one to develop the theory of relativity. The reason, I think, is that a normal adult never stops to think about problems of space and time. But my intellectual development was retarded, as a result of which I began to wonder about space and time only when I had already grown up. Naturally, I could go deeper into the problem than a child with normal abilities.

ときどき、自問しちゃうんだよね、どうやって相対論を考えだせたんだろうって。
理由は、僕が思うにね、普通の大人だったら絶対に考えるのをやめちゃうようなことを、僕が考えていたからじゃないかな。時間と空間の問題についてね。 だいたい、僕の知性の発達は遅れていたからね、だから、僕が「時間や空間」を不思議に思ったころには、もう子供じゃなかったからね。だから、自然と深くその問題について考えるよね。普通の子供が考えるのに比べたらはるかに深くね。


「同時」ということを我々は無邪気にニュートン力学的に解釈します。

同時というのは文字通り、同じ時ということであり、それは宇宙の大時計で測れるようなものです。
たとえば、グリニッジ標準時で0時と言えば、全世界でも宇宙でも同じ時刻を指すと我々は考えがちです。
それは違うということを示したのがアインシュタインです。
ある人にとって(ある観測系にとって)同時であることが、別の観測系の人にとっては同時ではありえないのです。それをシンプルな思考実験で示しました。

そのことで「人間の存在様態をつなぎとめる路線が修正されることになって、歴史の全行程が変わってしま」ったのです。

でも、このことはきわめて我々には馴染み深いように思います。
些細なことにこだわり、全体の地図が変わる体験を我々は何度もしています。
頭がシャッフルされ、世界の相貌もまたシャッフルされ、一変する体験をです。
オイディプス王が謎を解くにつれて、世界が変わったようにです。

我々も細部にこだわり、そして世界の相貌を一変させましょう。


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