死とは何かという質問はまさに永遠の謎なのかもしれませんが、僕は「死は存在しない」というエピクロスの立場が好きです。
エピクロスの議論はシンプルです。我々が生きている限りは死を経験せず、死んだときは感覚器官も失われ、大脳も失われている以上は経験することがありえない、というものです。
単純明快ですし、分かりやすいと言えます。
「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」(エピクロス)
もちろん先人に倣えば、釈迦は無記として、黙して語らず、孔子に言わせれば「われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」でしょう。いずれにせよ、平たく言えば死について考えることは時間の無駄かもしれないということです。
ちなみにエピクロスは我々のモットーである「隠れて生きよ」の人です。快楽主義者として知られますが、酒池肉林の快楽ではなく、快楽の定義が異なります。いわゆる我々のイメージする短絡的な快楽はむしろ快よりも不快のほうが大きいので避けるべきものです。
ただ我々は死に直面することで、生を深く認識します。生、そして、この世界を。
パスカルに言わせれば、そうでない瞬間というのは、むしろ生きていないのかもしれません。人生の悲惨から目をそらす暇つぶし(気晴らし)の時間であり、それ自体もまた悲惨です。
進撃の巨人のミカサは普段無口なだけに、その言葉は印象的です。
たとえば、死を覚悟した際ににつぶやくこちらのセリフ。
「この世界は残酷だ…そして…とても美しい」
彼女は、どんな世界を今(いま)わの際(きわ)に見たのでしょう。
シュライヒのこんな言葉があります(最近知りました)。
ミカサが見た世界なのではないかと勝手に想像します。
「神は可能性のオルガンの前に座り、世界を作曲した。我々憐れな人間は、ただ人間の声のみを聴きとるのである。だがそれすら既に美しい。全体はいかに素晴らしいものであるだろうか」(シュライヒ)
我々の感覚で言えば、クリプキの言う可能世界が目の前に無限に広がり、それぞれがキラキラと輝き、すべてが理想的でも、絶望的でも、それぞれに美しいのだと思います。なぜ絶望的でも美しいかと言えば、ギリシャ悲劇がすべて絶望的で悲劇的ゆえの、人生の美しさを描くからです。シェイクスピアも同様でしょう。
(ちなみに幸運にも今日、話を聞くことができた村西とおる監督は「嘘でしか真実を描けない」とおっしゃていました。まさにその通りです。我々は現実ではなく、むしろ演劇や映画などの虚構を通じて真理に至ります。ここでの真理というのは、より洗練された情報という意味です。抽象度を上げた世界が見えるということです)
「可能性のオルガン」というのは、たとえば仏教で言えば三千世界が広がっているイメージでしょうか?
オルガンというのが秀逸です。
教会音楽の音が巨大なパイプオルガンから降ってくる様が見えるようです(聴こえるというより、むしろ「見える」がふさわしいのが教会音楽であり、パイプオルガンでしょう)。
偉大な指揮者であるフルトベングラーは「音楽は人と人の間にある」と言いました。イエスは神の国は人と人の間にある言いました。
残酷ながら、美しいこの世界にあって、我々はより貪欲に美しさを求めていきましょう!
*フルトベングラーと言えば、こちらの「音と言葉」が有名です。
引用文はこちらからではないのですが、まず押さえておきたい本です。
僕は大学時代の親友に読むようにと贈呈してもらいました。
文庫で手に入りますが、できれば単行本で(^^)
音と言葉 (新潮文庫)/新潮社
¥562
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フルトヴェングラー 音と言葉/白水社
¥3,888
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エピクロスの現存する全著作がつまっています!
エピクロス 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)/岩波書店
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「この世界は残酷だ…そして…とても美しい」〜神は可能性のオルガンの前に座り、世界を作曲した〜
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