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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか」〜誤解されるイエス、新約聖書という神話〜

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新約聖書は我々にとっては聖典かもしれませんが、他の文化圏に属すれば、これは神話です。

神話学をなぜ学ぶのかと言えば、神話学という視点は用い方によっては、神学や宗教学、聖書学を包摂するからです(とは言え、寺子屋「神話学」でも再三述べたように相対主義に陥ることは避けるべきです。我々の生は相対的なものではありえません。ソクラテスが批判した相対主義者のソフィストに陥るくらいならば、無知の闇に落ちているほうがマシでしょう)。

キリスト教も仏教も伝説も伝統も、文献を介して学びます。その文献は神話と呼ばれます。自分の属する文化・宗教では聖典と言います。仏教なら経典とか仏典です(経というのはそもそも道教の言い方なので、仏教にはなじまないのですが)。

そしてイエスは誤解されがちです。

たとえば金持ちが天国へ行くのは、らくだが針穴を通るより難しいなどと言いますが、貧乏人も同じく難しいのです。というかそもそも人が自力で天国へ行くことは難しく、むしろ行けないとさえ言えます。

ただ、人にはできないが、神ならできる。というのが結論です。
これは仏教哲学の自力救済、他力本願ということと照らしてもわかりやすい議論です。
親鸞で言えば悪人正機です。

カルヴァンはよりわかりやすく、救済されている人は神様のデス・ノートに書いてあると言いました。すでに決まっている(予定されている)ので人間の側から何かすることはできません。ただそのデス・ノートに名前が書いてあることを信じて、日々頑張るだけです。

審査結果発表の瞬間と同じです。その瞬間に緊張しても、もう結果は決まっているし、変わることはありません。ですが、思わず祈ってしまったりします。

で、金持ちの話ですが、もしもイエスがお金を稼ぐことを否定していたら、プロテスタンティズムが資本主義を支えるようなことはありえません(マックス・ウェーバーですね。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)

イエスの譬え話の中で興味深いものがあります。昨日の神話学の質疑応答で紹介しました。

こんな譬え話です(ルカ19章11節から28節です)。

ある身分の高い人が王位を受け取るために旅へ出かけます。
その旅の前に10人の部下を呼んで、総額10万円を渡して、言います。
これでビジネスをせよ、と。

で、王様になって戻ってきた時に収支報告をさせます。

Aさんは1万円を10万円にしました。
Bさんは1万円を5万円にしました。
Cさんは1万円に手を付けずにタンス預金したままで、1万円のままでした。

王様は10万円稼いだAさんに10の街を支配させることにします。
5万円稼いだBさんには5つの街を支配させることにします。

しかし、、、、

1万円を手付かずにしたCさんからは、その1万円を取り上げ、Aさんに渡しました。

そしてあまりに有名な次のセリフを吐きます。

「あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。」ルカ19:26

ちなみに銀行と利子についても語っています。

なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに

そう言えば、利息についても、寺子屋にて議論になりましたね。

ユダヤキリスト教の伝統は同じ信仰を持つ仲間からは利息を取ってはいけないのであって、異邦人からは構わないのです。

自分に与えられた資源、チャンスを最大限に活かせというメタファーだと僕は感じます。

恵まれた環境、恵まれた資質、恵まれた資源にありながら、悲嘆ばかりで、行動せず(悲嘆ばかりでも行動し結果を出す人もいます)、1万円を1万円のままに現状維持とするならば、その資質や環境などという神からの信託なり、ギフトなりは取り上げられます。他に使うにふさわしい人に移譲されます。

与えられた貴重で稀な機会をどう人生において最大限に活かすかが、我々にはいつも問われているように思います。


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