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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「脅迫、殺害の息をはずませ」ていた目からウロコのパウロ(使徒行伝;新約聖書)

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イエス・キリスト、使徒パウロ、聖アウグスティヌスに共通する興味深い点があります。

もちろん、三者ともにキリスト教会にとっては欠かせない重要人物ですが、興味深い共通点とは、三人ともが成人洗礼であるということです。

洗礼とはもともと信仰告白とセットなので、成人が行うものでありますが、幼児洗礼のイメージが強いのであえて成人洗礼と言っています。

実際に、イエス・キリストはバプテスマのヨハネによって洗礼を受けました。

パウロはもともとはユダヤ教徒であり、ローマ市民ですのでキリスト教を迫害する側でした。
後述しますが、イエスと出会い、回心して洗礼を受けます。

そしてアウグスティヌスも若い頃は異端であるマニ教にはまり、肉欲におぼれており、晩年の「告白」によれば、パウロのロマ書(ローマ人への手紙:新約聖書)を読んで回心して、その後洗礼を受けたのはご承知のとおり。

全員が成人洗礼です。


カール・バルトは幼児洗礼ではなく、洗礼は自分の意思で行う成人洗礼であるべきだと主張します。
より正確に言えば、イエス・キリストの死からの復活を事実として受け入れてから、その信仰を持ってから洗礼を受けるべき、と。

これは、まさにその通りと言うべき内容です。

洗礼の意味もわからぬ幼児に施すべきではないでしょう。


まあ、それはさておき、パウロです。

新約聖書の使徒行伝の9章はこんな物騒な始まり方をします。

(引用開始)
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(引用終了)使徒行伝9章1節~2節

脅迫、殺害の息をはずませながら」とはおだやかではなく、それも「主の弟子」、すなわちキリスト教徒に対してです。ユダヤ教徒として、ローマ市民として、キリスト教徒を迫害するのが使徒になる前のパウロ(サウロ)の役割でした。

ちなみに使徒行伝(使徒言行録)とは、使徒の言行録です。

もちろん新約聖書です。

新約聖書ではマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書(エヴァンゲリオン)が有名です。
マタイ、マルコ、ルカの三つはそっくりなので共観福音書と呼ばれます。
ヨハネの福音書を含めたこの4つの福音書はいわばイエスの生涯です。イエスの言行録です。

それに続けて、キリスト教の基礎をつくった使徒のペテロとパウロの生涯のお話が続きます。これが使徒言行録。そしてパウロのお手紙集が「ローマ人への手紙」からたくさん続きます。最後がヨハネの黙示録です。

すなわち、新約聖書の作りはシンプルで、共観福音書(イエス)、使徒言行録(ペテロ・パウロ)、パウロのお手紙、黙示録ということです。

使徒行伝の使徒とはもちろんペテロとパウロです。たしかにペテロはイエスの一番弟子であり使徒と名乗っても良いのですが、パウロは生前のイエスと出会っていません。

しかし、パウロは自らを使徒と高らかに名乗ります。これはすごいことです。

たとえば、パウロがローマのキリスト教徒たちに書いたお手紙である「ローマ人への手紙(ロマ書)」の冒頭にはこうあります。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ロマ書1:1)

ひどい言い方をすれば自称ということですw。

しかし、このエフィカシー(自己評価)の高さこそが重要なのではないかと思います。

そして、この確信こそが、パウロを使徒にしました(我々も根拠も、サポートする事実もなくとも、確信し確言=アファメーションしていきましょう!)。

パウロが自身を使徒とするのが、砂漠でのイエスとの出会いです。

パウロがイエスと出会うシーンは感動的です。回心の瞬間でもあります。

キリスト教を迫害する側から、突如、イエス・キリストの福音を述べ伝える側へなります。エバンジェリストにパウロはなったということです。


話はシンプルです。

迫害しようと向かっている最中に、天から光がさし、イエスが直接パウロに話しかけます。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」

と。

パウロは答えていわく、

「主よ、あなたは、どなたですか」

それに対して、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えます。

「あなたが迫害しているイエスである」という自己紹介は非常に興味深いものがあります。

そして続けて、「さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と言われるのですが、ここでイエスはパウロの目を潰します。正確には見えなくします。

それが3日間続き、他のキリスト教徒がイエスの伝言を伝えて、パウロの目は回復します。

このときに目からウロコのようなものがポロポロと落ちます。これが眼から鱗の語源。豚に真珠と同じく、聖書由来です。
眼から鱗が落ちた直後に、パウロはバプテスマ(洗礼)を受けます。

もちろん納得できないのは迫害されていたキリスト教徒たち、突然転向したパウロを信じられないばかりか、あまつさえ殺そうとします。アサシンの群れから脱出しながら、パウロは徐々に信頼を獲得していきます。

これは実際の使徒言行録(使徒行伝)を読んでいただいたほうが面白いと思います。使徒行伝のリンク使徒行伝9:1-29はこちらです。

ワクワクしながら読んでいただければと思います。


*ピエトロ・ダ・コルトーナ「パウロの回心」(1631年)
イエスの言葉を預かったアナニヤがサウロ(パウロ)に言葉を伝え、目からウロコが落ちる瞬間。右の子供が手にしているのはバプテスマ(洗礼)の準備でしょうか。



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