キリスト教に限らず、どの宗教もどの神話もきわめて魅力的です。
魅力的でない限りは、物語のようなきわめてFRAGILEな(壊れやすい)ものは残らないからかもしれません。
物語の伝承において、基本的には人間がメディアです。人から人への伝言ゲームを補助するのが、テクストです。文書だけでは消えてしまいます。読む人がいて、解き明かす人がいることで、物語は残ります。
とは言え、本当にキリスト教というのは魅力的です。
たとえば、アウグスティヌス。
彼はキリスト教会の最大の教父であり、神学者です。いわば権威であり、スーパーエリートですが、決して奢ることなく、自分を戯画化しています。ギリシャ語が苦手で勉強が嫌いだったことや(新約聖書は別名ギリシャ語聖書。コイネーギリシャ語なので少し異なりますが、いずれにせよギリシャ語は不可欠です)、洗礼前なら遊んでも良いと学生時代に言い合っていたこと。若いころに徹底的に堕落し、マニ教に傾倒し、占星術にはまったことを赤裸々に公開しています。
そのような罪深さをもってしても、最大の神学者になりうるのです。
それは裏切りのペテロしかり、キリスト教を迫害してきたパウロしかりです。
過去は関係ないのです。まさにコーチング( ー`дー´)キリッ
人間の弱さとそれでもなお存在する偉大さの両面を見つめる神の優しい眼差しがそこにはあります(と「まといのば」らしからぬ発言ですがw、とはいえ神学を学ぶときは、我々は一時だけだとしても信仰を持ちましょう)。
アウグスティヌスの半生を描いた「告白」の第2巻第1章の冒頭です。
(引用開始)
わたしは、自分の過去の汚れたふるまいと肉にまつわる私の魂の堕落を想起しようと思う。(略)わたしはかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた。(引用終了)アウグスティヌス「告白」第2巻第1章(岩波文庫p.44)
「下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた」とはかなり赤裸々です。実際の叙述はもっと赤裸々です。
これは堕落を肯定するのではなく、神への愛ゆえとアウグスティヌスは語ります。
アウグスティヌスはパートナーがおり、私生児をもうけ、マニ教にふけり、占星術にはまります。
(パートナーがいることも、肉欲にまみれることも、私生児をもうけることも罪だとは思えませんが)
そのような放蕩(ほうとう)の限りを尽くしたあとで、突如回心を果たします。
このときの新約聖書の一節がパウロのロマ書でした。
そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(ローマ人への手紙13:13-14)
このシーンはアウグスティヌスの自叙伝である「告白」においても、最もドラマチックに盛り上がるシーンです。
回心の直前、魂の闇の中でアウグスティヌスは苦しみぬきます。
アウグスティヌスはこう神に訴えます。
「主よ、あなたはいつまでなのか。主よ、いつまでなのか、あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないでください」(アウグスティヌス「告白」岩波文庫 上巻p.280)
妬む神(出エジプト記20:5)だけあって、なかなかしぶとく怒っています。
アウグスティヌスは号泣しながら、声を張り上げて言います。
「もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまでないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりではないのですか」。(同p.280)
痛切な訴えです。
神様はノックすると応えてくれます。しつこいくらいにノックすると応えてくれます。(マタイ7:7
すると、どうであろう、隣の家から、男の子か女の子かは知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、「取って読め、取って読め」と何度も繰り返していた。わたしはすぐに顔色をかえて、子供が何かの遊戯に、このようなことを歌うのだろうかと一生懸命に考えてみた。しかしそのような歌はどこでも聞いた覚えはなかった。それでわたしは溢れ出る涙を抑えて立ち上がり、わたした聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。
隣の家から聞こえてきた子供の繰り返す「取って読め」が神からの啓示と考え、そして読んだのがロマ書の13章13節、14節でした。
再掲します。
そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(ローマ人への手紙13:13-14)
この瞬間に回心を体験します。
わたしはそれから先を読もうとはせず、また読むにはおよばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである。(同p.281)
アウグスティヌスの回心においても、その結節点はパウロのロマ書でした。
我々も(たまに)主イエス・キリストを着ましょう!
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*アウグスティヌスはアフリカ出身です。西洋の伝統にそもそもアフリカ系を差別するなかったのです。のちの神学が起こした大きな過ちがアフリカ系に対する差別だと言えると思います。
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「下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた」アウグスティヌス
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