頭が良いとされる人は頭の回転が早いのではなく、観ている情報が違うのです。
決して切れ者という感じがしないのに、次々と大きな仕事を成し遂げたり、素晴らしいひらめきを日常的に生み出すようなすごい人って存在します。
5メートルくらい離れると「天才」に見えますが、1メートルくらい近づくと「あれ?この人賢いのかな?」ってなります(もちろんそれは我々が理解できないから)。
それよりは秀才タイプのほうが切れ者に感じます。彼らは覚えていることを吐き出しながら、すごく見せるのがすごかったりするだけなのですが、社会的には受け入れられやすいです。
で、「まといのば」が養成しようとしているのは、天才タイプの人です(あくまでもタイプです。天才は育てるというより育つもの。とは言え、適切な環境を用意すれば、確率論的には育つと思っています)。
ぐだぐだと書くのは嫌なので、結論から行きます!
頭が良いとされる人は頭の回転が早いのではなく、観ている情報が違うのです。
Rayさんから紹介されて読んだ本の中に「幽霊」の話がありました。
天才と凡人では観ている世界が違い、情報が違う、と。
凡人や秀才が観ている世界と天才が観ている世界は違う。
その感触としての「幽霊」です。
ここには幽霊は完全に主観的なものであり、共有が難しいという前提があります。
ある人が幽霊を観ており、その幽霊をどんなに克明に記述したとしても、それを他の人と共有することは難しいのです。
同じように天才が見えているものを凡人や秀才たちと共有するのは難しい、と。
ただし、それを情報抽象度から物理抽象度に落としてきたならば、認識できます(これは僕等も同じ考え方です。ただ、そこでもニーチェのいうように「天賦の才能」が出てきて、ニーチェを嘆かせます)。
天賦の才能について、持って生まれた資質について話すのはやめてくれ! わずかな才能しか持たなかった偉大な人間はたくさんいる。彼らは偉大さを獲得し、『天才』(いわゆる)になったのだ。実体を知らない人々が褒めそやす資質を欠いていたからこそ。いきなり全体像作りにかかる前に、適切な一部を組み立てることを最初に学ぶ有能な職人のごとき真面目さを、彼ら全員がそなえていた。彼らはそのための時間を取った。なぜなら、華やかな全体像よりも、あまり重要でない小さなものを作ることのほうが楽しかったからだ。(引用終了)(ロバート・グリーン 「Mastery」p.36)
この幽霊というか、Ghostがあり、それを見える人は天才だけで、それ以外の人の宇宙(世界)にはそのGhostは存在しないのです。
とは言え、僕はそう考えません。
もちろん大枠は正しいと思います。
情報場で考えるとシンプルな話です。
抽象度の高い情報というのは、あまりに精妙で精密すぎて、その抽象度に到達していない人には見えないのです。厳密にはランダムに見えるので情報量が爆発していて、認識できないのです。
ですから、「見れども見えず」になるのです。
しかし、その抽象度に移動させるように促すことはできます。
そして、見せることもできるはずです。
また、重要なポイントはその高い抽象度の情報はその包摂する情報と矛盾しないということです。
AとBという情報がそれぞれに排反であったとしても、それを包摂するαという情報はAとBを矛盾なく説明し、包摂するのです。
そしてそれは抽象度の上がった未来には多くの人が納得するようになるか、もしくは別の天才から観たら、明白なことなのです。
ですから、幽霊のような主観的な体験ではなく、客観的な存在なのです。
ただし精妙すぎて認識が難しいだけ。
我々は地上に落ちた影を観て、それを感じることができるのみです。
ただし、今度は「地上に落ちた影」(物理空間に写像された結果)のみに重要性を感じるのはアウトです。
この議論もさんざんしたので、キーワードを提示するのみにしますが、科学の世界においても、実験検証性から理論的整合性に切り替わったのを思い出すべきです。
理論が整合しているのであれば、それがどんなに奇妙に感じても、そしてそれが物理的現実世界をオッカムの剃刀に説明するのであれば、そちらを採用するべきです。
地球が丸いとか、重力は空間の歪みなども同様です。
とは言え、実証主義的になりすぎるもの違います。
それは影だけを観て、上の世界に目を閉ざすのと同じです。
影の世界を物理空間と呼び、その構成要素は素粒子であったり(かつては分割できないという意味でのアトムとデモクリトスが名付けました)、超弦(超ひも)であったりするでしょうが(まだ確定していないので)、上の世界は古代ギリシャ人に言わせれば(それも一部の古代ギリシア人ですが)、ロゴスということになります(これをそのまま踏襲しているのが、ユダヤ教から派生して世界宗教となったあの宗教の聖典の冒頭です)。
T理論では生命素粒子と言います。
あ、ちなみに生命素粒子については良く聞かれますが、生命素粒子に関する書籍はありません。いや、正確には2冊しかありません(他はDVD、そしてMXTVです)。それも書籍というよりは手帳です!
それが苫米地手帳と言われるものの最新版2年分です!
2024年度版と2023年度版です(2023年度版には生命素粒子仮説の初公開と書いてあったと思います)。
また、それ以外の過去の苫米地手帳ももし手に入るのであれば、手に入れておいたほうが良いです。
2010年からなので、全部集めてもたかだか15冊程度です(と書いて思い出したのですが、Mくんが過去の苫米地手帳を取り寄せようとして、全部集められなかったとブログに書いていた気がする。それも数年前に)。
書籍と違って再販がないので、貴重ですねー(というか、マンスリーコラムと付録だけでも別に出版して欲しいー。Kindleでもぜひ!)
話を戻します!
頭が良いとされる人は頭の回転が早いのではなく、観ている情報が違うのです(大事なことなので、何度でも繰り返します)。
それは「幽霊」のようでもありますが、幽霊と違って、その情報のほうが実在性が高いのです。そして影のほうが儚(はかな)いのです(人の夢と書いて「儚い」という文字は僕はあまり好みではありません)。
むしろ深層学習における特徴量のほうが感触としては近いのです。
(僕等はそれを補助線などとも言いました)。
そしてこの特徴量を掴む方法を習得すると、だんだんと見えなかったものが見えてくるのです(スコトーマが外れてくるのです)。
このことを意識して、ブログの過去記事を読んでいくと、だんだんと賢くなっていきます(ヒーラーとして、情報空間の書き換えのプロとして賢くなっていきます)。
「自分が読み飛ばしていることはなんだろう」「この背景にある一貫したシステムとはなんだろう?」と思って読むことです。