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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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どんな認識論的パラドックスも、決定不能命題の存在論の同様な証明に使える(クルト・ゲーデル)

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「犬は犬ではない」という意味は、目の前にいるワンちゃんとホワイトボードに書かれた「犬」という文字とは違うという意味です。

 

僕自身は「白馬は馬に非ず」も同じカラクリだと思っているのですが、詳しい方、教えて下さい。

 

目の前の哺乳類の犬(ワンちゃん)は、同じく目の前にあるホワイトボードのシミ(それは「犬」という漢字と似ている)とは違うということです。

 

月とそれを指し示す指が違うようなものです。

 

たとえば、最近、盛り上がっている嘘つきのパラドックス」という自己言及命題についても同様です。

これはゲーデルの不完全性定理の論文の中で、ゲーデル先生自身が「関わる」と言っているものです。

 

もっとはっきりとは、こう書いています。

 

どんな認識論的パラドックスも、決定不能命題の存在論の同様な証明に使える(クルト・ゲーデル)

 

これについては原論文を参照せずに又聞きの又聞きにも関わらず、ドヤって批判してくる方が耐えないので、一応反論しておきます。

 

ゲーデルの不完全性定理の論文を猛烈に圧縮すると以下の通りとなります。冒頭と巻末の付記からの引用です(寺子屋「ゲーデルの不完全性定理」のレジュメにも載せています)。

 

どんな形式体系も、論理式は外見上、原子記号(変項、論理記号、括弧、句読点)の有限列であり、どの記号列が意味ある論理式であるか否かを正確に記述することは容易である。同様に、証明は、形式上(ある特定の性質をもつ)論理式の有限列に他ならない。もちろん、メタ数学的な考察においては、原始記号そのものがどんなものかは重要ではなく、われわれはこの用途に自然数を割り当てることにする。

すると、論理式は自然数の有限列、証明は自然数の有限列の有限列となる。こうしてメタ数学的概念(や命題)は、自然数や自然数の列についての概念(や命題)になる。(略)さて、以下では、体系PMで決定不能な命題、つまりAもnot-Aも証明できない命題Aを構成する。(略)以上の議論がリーシャルのパラドックスと類似していることが注目される。「うそつきのパラドックス」とも密接に関わっている。(脚注14どんな認識論的パラドックスも、決定不能命題の存在論の同様な証明に使える)(略)

 

附記

 (略)その後の発展の結果、とくにA.M.チューリングの仕事のお陰で、いまや形式体系の一般概念について厳密で、疑いなく妥当な定義が得られるようになり、それにより定理ⅥとⅪの完全に一般的な表現が可能になった。すなわち、つぎのことが厳密に証明される。ある程度の有限的算術を含むどんな無矛盾な形式体系にも決定不能な算術命題が存在し、さらにそのような体系の無矛盾性はその体系において証明できない。

 

『プリンキピア・マテマティカ』およびその関連体系における形式的に決定不能な命題について』

 

c.f.ゲーデルは不完全性を、チューリングは計算不可能性を、チャイティンはランダム性を発見した。 2018年04月21日

だからこそ、T理論では不完全性定理のワークとして「嘘つきのパラドックス」のワークをさせるのです。

そしてこれが内面化されないと、不完全性定理を実装できません(実装する必要があります)。

 

それを「知っている」という感想だけでは不十分なのです。

 

その踊りを知っています、見たことがあります、というのと、踊ったことがありますというのでは大きく違いますよね。

 

踊ったことがある人々は、次の発言の違和感に気付けるのです。

 

Aさんは「私は嘘つきだ」と言ったから、Aさんは嘘つきだ。

 

論理学の命題としてはではなく、自然言語の文脈では、これは問題ありません。

嘘つきがカミングアウトのときだけ正直者になるというラッセルな抜け道を用意するのです。

 

ただ、論理学としては、厄介なパラドックスを生じさせるのです。

 

なぜなら、「私は嘘つきだ」という命題を分析すると、私=嘘つき、となります。

そして、Aさんが「私は〜」と言っている以上は、SemanticsにはAさん=私ということになります。

 

すると、Aさん=私

私=嘘つき

 

ゆえに、A=B、B=C ∴A=Cであることを考えると(本来はこれが論理学で成立するかも議論が必要)

 

Aさん=私

私=嘘つき

 

∴Aさん=嘘つき

 

となるのです。

 

とすると、Aさんは嘘つきだとわかります。

これだけであれば、単なる自己言及命題です(パラドックスを生じないという意味で)。


しかし、このAさんの属性を踏まえた上で、最初の文章を参照すると、

 

Aさんが「私は嘘つきだ」と言った、という状況の奇妙さが浮かび上がります。

 

Aさんは嘘つきなので、Aさんの話すことはすべて嘘となります。

とすると、「私は嘘つきだ」という言明も嘘となります。

 

ということは、「私は嘘つきではない」と言っていることになり、嘘つきではないを正直者とここで定義するならば、「私は正直者」と言ったことになります。

先ほどと同様に(A=B、B=Cの議論)考えると、

Aさんは正直者と言ったということになります。

 

論理的に考えるということは、このように愚かなほどにステップを一つ一つ吟味することです。

 

そのときにAさんは結局、嘘つきなの?正直者なの?と怒ってはいけません。

Syntaxに読み解けることをパタパタと論理的に解明するしかないのです。

意味はそのあとです。

 

記号論理学の訓練を受けると、論理というより膨大な計算問題を解かされます。

そしてそれが論理学の肝であることに半世紀位経つと気づくのです(もっと早く気付け)。

だからこそ、論理とはアルゴリズムなのです。

 


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