つい先日のことと思ったら、もう10年も前なのですね〜
映画『桐島、部活やめるってよ』はとても良い作品でした。
音楽も良かった。
c.f.「向いてないなら 仕方ない... きっと夢も努力も徒労に終わる(ミカサ・アッカーマン)」 2015年01月06日
それをもじって言えば、「まといのば」としては、コーチングをやめようって思いました。
いや、そもそもコーチではないので、コーチングはしていないのですが、コーチたちが大挙して押し寄せてきて、コーチングを教えて欲しいという流れがこの10年くらい続いていたので、「まといのば」としてはもオーセンティックなコーチングをしようと自分の手(口)を縛っていました。
でも、それをもうやめようかなって思っています。繰り返しますが、そもそもコーチではないので、、、、、。
とは言え、コーチたちに配慮して、コーチングを実践するようにして、背中を見せようと思ってきたのですが、もういいかなーと思っています。
苦言を呈させてもらうならば、自称コーチたちに切迫感もなく、危機感もなく、学びたいという意識も希薄です。いや、本人たちが必死なのは分かりますが(分かりたいと思っていますが)、「まといのば」の速度とは合わない。
いや、別に気功整体でも、オイルトリートメントであっても、全く速度感は合わないし、忍耐強く待とうと決めて10年が経ち、待つ必要が無いものを待ってしまったのかなと最近は少し後悔しています。カパだけが増えました。忍耐力があることが良いことかはいまだに実証されたことはないかも。
それが「まといのば」終了の理由ではないのですが、まあ、Want to100%で生きろと教える側にHave toが混じってはいけないとは思っています。
「やりたくないことはやってはいけない」とはとても重要なプリンシプルです。
というわけで、厳密にははじめてもいないけど、コーチングは終了です。
これからはメンタリングに切り替えます(いや、ずっとそうか)。
コーチングの実践例を見てもらおうと思って、かなりオーセンティックにコーチングをしてきたのですが、目の梁が大きすぎるのか、見る気が無いのか、リスペクトが無いのか、ゴールが無いのか知りませんが、全く学ぶ気配がないので(それは脱洗脳に関しても同じ。これほど明瞭に解説付きで見せているのに、全く違うところにばかり注目するのはなぜか問い正したい。センスが無いのかな)。
というわけで、コーチングではなく、メンタリングに切り替えます。
コーチングとメンタリングはT理論ではかなり明確に定義されています。
で、正直に言えば、Dr.Tやルー・タイスがするのはかなりメンタリングだと思っています。ただ、メンタリングをするには才能と人間力と強烈なゴールが必要なので、その前段階であるコーチングを広めているのだと僕は認識しています。まあ、それが正しいのかどうかはともかくとして、大きく方向転換したいと思っています。
コーチ集団を育てたいと思ってきたのですが、「まといのば」に集うメンバーの(高名なコーチもいます)質がたまたま悪いのか、それとも僕の問題なのか、彼らのゴールが弱いのか、どれが理由なのか知る由もないですが、コーチ育成についてはセカンダリーにしたいと思っています。
これからは別なことがメインとなってきます(まあ、これもスケジュール通り)。
いや、どうせまたこのことも忘却の彼方になってしまい、この時に何を考えていたか忘れてしまうので、一応書いておきます。
ご批判を覚悟で書いておきます。
というか、どうせ文字を読むに不自由なアホが誤爆というか、「自分のことですね」と落ち込むのでしょうが、「落ち込めボケ」と言いたい。そうやって落ち込んで人生がうまくいくのであれば、その落ち込みとやらを永遠にやっていれば良いです。「というか、お前のことなんて誰も歯牙にもかけていないよ」と人生の真理を囁いてあげたいですが、そんな親切ではありません。
シンプルにメンターから「コーチングをやれ」と言われたら、コーチングをやればいいのにと思います。何年も同じことを言わすな、と思います。そして、アドバイスを求めたなら、それなりの献身を前提にしろ、とも思います。
比較するのも違うのでしょうが、ヒーラーたちのほうが、この件に関してはまだマシです。ヒーラー志望の一人一人は才能の無いヘタレの割には(いや、だからこそ)きちんとメンターの言うことを聞きます。才能がなくてもセンスがなくても、メンヘラでもアホでも、結局、理論をきちんと学び、そして真摯に実践を積み重ねれば、驚くような相転移を繰り返すのです(転生を繰り返します)。そして実際に結果を彼らは着々と出してきています。自分の才能とか知性とかに全く自信がないからこそ、きちんと言われたことを愚直にやる程度の知性が彼らにはあるのです。そしてその愚直さに対して、宇宙は報いるのです。
いわゆるサロンルートなどがそれに当たります(意味が分からない人はここを読み飛ばすか、過去記事を読んでください。ヒーラーが職業として自律するために、巷のチェーン店のサロン勤務などを経て、経験値を積むことをサロンルートと呼んでいます)。
コーチングに関しても同じような方法を幾度も幾度も幾度も進めていますが、まあ驚くほど実践しません。彼らは比較的に頭も良いし、チャンスにも恵まれている環境にいるにも関わらず、Creative Avoidanceの王様のようになっています(先日、都心の某所で長年コーチをやっている人に、「ゴールをイメージして(話せではなく)」と言ったら、「ゴールですか、、、」と戸惑っていたことに驚かされました)。「ゴールなんてこの10年考えたことがなかったです」という体で腰を抜かしました(繰り返しますが、全員の前で自分のゴールを公開せよと言ったのではありません。脳内でイメージしろと言っただけです)。
この話は、タレブの「真剣な話」を思い出します。
トリファット教授のエピソードを紹介しよう(話の真偽が疑わしいため仮名を使う。だが、私がこれまで見てきた経験からいえば、よくある話だ)。彼は決定理論の分野では”たびたび引用される”学者である。彼はこの分野の定番のテキストを執筆し、「合理的意識決定」とかいう壮大で役立たずな理論を築いた。この理論には壮大で役立たずな公理や似非公理、壮大でもっと役立たずな確率や似非確率がちりばめられている。当時コロンビア大学の教授だったトリファットは、ハーバード大学の職を引き受けるかどうかで悩んでいた。リスクの話をするような連中の多くは、この手の決断よりも難しいリスクテイクなんていちどもしないまま一生を過ごすのだ。するとある同僚が、「君のいつも書いている”期待効用の最大化”とかいう、ご大層(たいそう)な理論を使ってみたらどうだい?」と提案した。トリファットは怒ってこう言い返した。「何を言っているんだ、これは真剣な話なんだぞ!」
コーチングはやめますが、ゴール設定はますます重要になっていきます(この違いが分からないなら、もう、、、、いや解説しましょう↓)。
コーチとは同時通訳のようなものと以前Dr.Tが言っていました(いや、正確にはもっと卑猥な表現を使っていたのですが、漂白化のコードにひっかかるので、避けます)。コーチとは無ければ無いにこしたことがない存在です(セルフコーチングで済ませられれば最高)。薄ければ薄いほど良い。意識に上らないくらい薄い存在であるほうが良い、と。
「まといのば」では良い鏡になれ、と。エゴで曇らせるな、エゴで解釈を入れずにEchoせよ、と言っています。ちなみに、よくコーチの卵たちが言う「なかなかお試しでもコーチングセッションができない」みたいな創造的回避発言に対しては、親切にも「周囲の人間の言葉をきちんと聴くEchoから始めたらどうか?」と処方箋まで渡しています。そうすれば24時間コーチングの練習ができます。
イメージはミヒャエル・エンデの『モモ』のタイトルロールです。邪魔しないで話を聞き、しっかりEchoしましょう(ちなみに、Readingのイメージはソクラテスです。ソクラテスの産婆術)。
コーチはゴール設定や更新のお手伝いをしたり、エフィカシーを上げるお手伝いをすることです。ただし、クライアントのゴールのコンテンツに関わりません。関われないようになっています。一方で、メンターはガンガン、コンテンツに関わります。知識を教え、考え方を教え、誘導し、励まし、警告します。