「まといのば」ではかなり一般的ではないコミュニケーションを強く要求します。
それは受講生に対してもそうですが、RaySalonのセラピストに対してはほぼほぼ強制です。
いや、強制はしていないつもりですが、自発的に従うようにしています(それを強制と言う)。
いやいや、いつも選択肢(オプション)は与えているつもりです。
冗談で言っているのは「はい」か「Yes」かどちらでも選べ、ということです(心から言いますが、これは冗談です。この先は本気で言いますが、Have toで選ばれた選択が場に交じるほど厄介なことは無いのです)。
歴史に名を残すであるイーロン・マスクと比肩する気は毛頭ないことを前提として、ささやかな共通点に感じ入ることがしきりです。
面白いと思ったのはたとえば次の一節です。
マスクは会議で同じことをなんども言いがちだ。強調の意図もあるのだろうが、ほとんど無意識に繰り返す祈りの言葉みたいな面もまちがいなくある。そういうとき、その言葉をオウム返しにするとマスクも安心してくれがちだとクレブスは気づいた。
「ちゃんと聞いていると確認したいんですよ。だから、彼のフィードバックは復唱することにしました。壁は黄色に塗るべきだと言われたら、『そうですね、これはよくありません。壁は黄色に塗り替えます』と言うんです。
「その(イーロン・マスクの)言葉をオウム返しにするとマスクも安心してくれがち」というのが良いですね。
逆に言えば、復唱されないとイーロン・マスクとしては永遠に不安だということです。その気持は分かる気がします。
そして、ありがたいことに、具体的なやり方まで例示されています。
イーロン・マスク:『壁は黄色に塗るべきだ』
我々:『そうですね、これはよくありません。壁は黄色に塗り替えます』
という風に。
かつてのRaySalonでは、軍隊のように復唱しろ、Copy thatを徹底しろと言っていました。これは今でも本質的には変わっていません(ただ、今は長い休暇中のようなものです)。
自分の耳をどれだけ過信できたら、「わかりました」とか「承知しました」とだけ言えるのだろうといつも不思議に思っていました。その軽い「わかりました」に何度裏切られれば良いのかと暗澹とします(むしろ厄介なのは本当に分かっているケースもあること)。
多くの場合は、目にも耳にもスコトーマがあり、RASがあるので、読み飛ばし、聞き飛ばすのです。ですから、何がキャッチできたかたは冗長でも復唱して欲しいのです(もしくは理解を示すIQの欠片を提示するのでも良いのです。たとえば、あるコンテクストでしか理解できないジョークを話したときに、そのコンテクストの別な例を持ち出すことで、コンテクスト全体に対する理解をさり気なく示すことができます。たとえば、そういうことです)。
だからこそ、徹底的なEchoと徹底的な復唱(リピーティング)が必須です。
その復唱を聞きながら、相手は何が分かっていないか、何に臨場感がないかが透けて見えるので、追加で説明ができます。
コミュニケーションはキャッチボールのようなもので、でもぼくらは盛大に投げて、盛大に落としています。ボールは1つだけで良いので、それを丁寧にキャッチボールすることができれば、大きく変わることができます。
以前、中間子のイメージでこのキャッチボールを語ったことがありますが、我々はボールがあるから存在しており、その逆ではありません。関係性があって、存在が生じるのです。
すなわち、ボールをぞんざいに扱うということは、相手も自分もその存在をぞんざいに扱うことにつながるのです。