本能的な行動だと思っていること、衝動にかられてやってしまうこと自体が実は本能というプログラムで構成されており、それはハッキング可能だというのが「内部表現書き換え」というフレームの重要な要素の一つでした。
それを政治哲学の分野から後押ししているのがサンデル教授の「正義」を巡る議論です。
正義とは実際に本能に根ざしているので、猿は不公平に扱われたと思うと、この季節にピッタを下げてくれるありがたいキュウリを手にしていても、隣の友人がバナナをもらっているのを観ると、キュウリを放り投げてしまうのです。キュウリは食べるものであって、ボールのように放り投げるものではないのに。不公平に対して怒ることが、手にしていないバナナに怒り、手にしたキュウリはしっかりと食べることよりも大事だと脳は判断しているのです。このときに脳が行っているのは合理的な判断です。壁に頭をぶつけて、額を割ったりはしないわけです。
どんなに頭がおかしくなっても、人はいつも論理的です。ダンプカーの前にナイフ一つ持って飛び出しりはせず、無差別殺人を計画しても、衝動的にやっても、自分より弱いと合理的に判断できる相手にしか向かっていきません。
キュウリに関しても同様で、食事としてのキュウリを失っても、アンフェアに対するレジスタンスを表明することが(自分に対しても、他者に対しても)大事だと論理的に判断してしまうのです。
猿が我々と同じようにアンフェアに対して怒るということは、正義感というのは本能に根ざしており、遺伝子に組み込まれていると言っても良いと思います。
一方で、我々の正義感はシンプルではなく、実は政治思想に根ざしているというのがサンデル教授の立論です。
これは古くは(それほど古くないですが)、ケインズを思い起こさせます。
(引用開始)
経済学者のJ・M・ケインズはかつてこう語ったことがある。理論を嫌う経済学者、もしくは理論などなくともうまくやっていけると豪語する経済学者は、結局、古い理論に縛られているにすぎないのだ、と。(引用終了)イーグルトンの「文学とは何か」の冒頭からの引用です。
c.f.寺子屋「文学」配信開始 〜文学は存在しないのか、なぜ文学理論が必要か、そして... 2015年01月02日
c.f.理論など無しでもやっていけると豪語する気功師は、結局古い理論に縛られているだけなのだ 2017年11月29日
これは重要な考え方です。
表層的な意識で理論を嫌っている人も、理論などなくともうまくやっている豪語する人も、結局は、自分が意識できていない古い理論に縛られているだけ、と。
この「理論」を我々はアルゴリズムと呼んだりして、そのアルゴリズムの集まり(固まり)をブリーフシステムと呼んだりします。
だからこそ、ケインズは「脱洗脳のすゝめ」を一般理論の冒頭に書きます(いや、もちろん「脱洗脳のすゝめ」は冗談ですが、「古い思想からの脱却」とは我々の考える脱洗脳と似ています)。
「困難は、新しい思想にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されてきた人々の心の隅々にまで広がっている古い思想からの脱却にある。」(J.M.ケインズ 雇用・利子および貨幣の一般理論 塩野谷祐一訳 序文より)
c.f.難しいのは、新しいアイデアを開発することより、古いアイデアから逃れることである 2012年04月08日
その「困難」が意識されているからこそ、我々はまっすぐに向かわずに迂回路を通ります。
それがFake itです。
フリをすること。
「いいひと」のフリをして、天才のフリをすることです。
それはあざといばかりの模倣であり、イミテーションであり、嘘です。
♫今日も嘘をつくの
この言葉がいつか本当になる日を願って♫(YOASOBI『アイドル』
それを意識してやっていると、だんだん「ホンモノ」と言われるようになってしまうのです。
そのころには無意識に習慣になってしまうのです。
それは情報空間の明確な移動です。原動力は意識に上げること。Rゆらぎそのものです。
p.s.タイトルの伏線回収ができていませんが、、、、
上記の話に基づけば、「一言、言い返してやりたい!とか、気の利いたことをここで投下したいと思うこと自体が何らかのアルゴリズム、戦略に沿っているのです。ケインズの言う「古い理論」に従っているのです。
そうであることが分かれば、次の戦略はシンプルです。その古い戦略を無効化し、新しい戦略を活かすようにルーティーンを変えることです。