アカデミズムと言えば、黒板という印象があります。
白板(ホワイトボード)ではなく、黒板とチョークです。
黒板を使いたいのです。
Wiredか何かで数学者か物理学者にインタビューしていて、学者はホワイトボードに描くイメージがあると言われて、ホワイトボードじゃなくて黒板(ブラックボード)が良いとおっしゃっていて、とても面白いと思いました。
(物理学者の大栗教授の研究室の壁もファインマン・ダイアグラムで覆われています)
アインシュタインは自分の周りのありとあらゆるところにメモ帳を置いておき、いつでもメモができるようにしました。
(かつてのDr.Tの私塾も黒板でした)
僕もホワイトボードがなければ、手近なメモ帳なりノートに書きながらセッションをします。
以前、喫茶店などでセッションをしていた時分は大判のノートを取り出して、そこに書きながら、講義していました。
今日いらしたT理論完全マスタースクールのヴァーチャル受講生はペンだこができたとおっしゃっていました。ノート3冊をかきつぶしたあとに、ルーズリーフに大量に書き込んであり、それを見せていただきました。どれだけ深く理解したかは、その方がその場で描いた図で透けて見えます。
(その方の理解度の深さに感動しました。ビデオ教材でも本気で学ぶならばここまで純度高く学べるのだと目からウロコでした)。
僕らは手を動かしながら、考えるのです。
アタマではなく手を動かしたいのです。
音読をしながら、読むのと同じです。
Echoも声を出すつもりくらいが良いのです。
手を動かしていると、手はアタマより賢いことに気付いたりします。
ポアンカレは主著『トポロジー』の中で「幾何学は下手にえがかれた図形について上手な推論を行う技術である」という言葉を引いています。
僕らはそれをもじって、T理論マスターとは、「下手にえがかれた図形について上手な推論を行う技術である」と言いたくなります。と昨日のブログに書きました。
c.f.n次元の幾何学は実体のある対象をもっている。今日ではこれを疑う人はいない(ポアンカレ) 2023年05月26日
下手で良いので、ガンガン大量に描きまくることで、いろいろと見えてきます。
それはアタマで、言葉で、考えることの数百万倍も良いのです。
図を描いて考えようとして、図を描いているうちに、その図が魂を持っているかのように語りかけてくるような瞬間があります。
自分が描いた下手な図形の中に自分がずっと求めていた回答があるのです。
これは強烈な経験です。
そして、宇宙とはこう成り立っているのだということが分かります。
たとえば、ドクター苫米地の最近の神奈川大学での講演もまた繰り返し拝聴しながら、端から端まで全てを図形に落とし込んでいくことです。
そうすると、表側の理論がすっきり見えるだけではなく、裏側の論理が透けて見え始めます。
密教と顕教と似ていて、密教とは秘密として隠されているのではなく、いつも目の前にあったのに、僕らが気付かないものなのです。
たとえば、T理論完全マスタースクールの中で(いや、違うかな)、我々はいま始めて学んだことを、昔から口に出して唱えていたことを思い出します。
子守歌がわりに聞いていたような聖書やイエスの言葉です。
たとえば、
はじめに言葉ありき(ヨハネ1:1)
であったり、
イエスを激しく喜ばせたローマ百卒長の
「ただお言葉をください(ルカ7:7、マタイ8:8)」
です。
そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。(マタイ8:8)
生命現象度の階層性の次元を示す軸が情報空間にもしあるとしたら、それは螺旋状なのではないかと思っています。
進化成長はいつも螺旋状です。螺旋状にワープしますw
同じところをぐるぐる堂々巡りをしているようでいて、気づいたら異世界に転生しているイメージです。
螺旋階段を上がっているようなもので、1段1段は離散的で、でもぐるぐる同じところを回っているようでいて、縦横無尽に飛び回っている人々を傍目に僕らは同じところを飽きもせずぐるぐる回っているのですが、でも、気づいたらその螺旋階段は異世界への入り口になります。
この螺旋階段をぐるぐる回る感覚を踏まえると、アリストテレスにとって最も大事であった卓越性についての言葉があまりにあっさりしている理由が見えてきそうです。
人間は繰り返しおこなっていることの結果である。
したがって、卓越性(アレテー)とは行為ではなく習慣なのだ。(アリストテレス)
c.f.人間は繰り返しおこなっていることの結果である。したがって、卓越性とは行為ではなく習慣なのだ。 2023年05月26日
倫理的な卓越性(徳、アレテー)は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣(エトス)化することによって生まれる。(ニコマコス倫理学第2巻第1章)