トゥールミンを学んでいても、ダイジンが出現します。
トゥールミンは自分の子供を、いやその孫と言うべきか、自分の子供である「議論の技法」から生まれたトゥールミンモデル(もしくは、Dr.Tはトゥールミンロジックと呼びます)を自分の直系と認めることにためらいます。
いかなる意味においても、私はレトリックや議論の理論を拡張するつもりはなかった。私の関心事は20世紀の認識論であり、非形式論理ではない。ましてや、コミュニケーション学の学者の間で呼ばれるようになった”トゥールミンモデル”のような分析的モデルを想定していた訳でもない。
と言います。
ただ、最大限の譲歩として、
”トゥールミンモデル”を自分のものではないとして捨ててしまうのは、不躾になるだろう。それは、『議論の技法』の予知できなかった副産物である。
と語ります。
ただし、この「議論の技法」の副産物としてトゥールミンモデルを認めたことと引き換えに、この子を死産して出てきたとまで語りますが(このような表現がこれからの漂白化された社会では受け入れられにくいのは分かりますが、それほどまでに激しい攻撃にさらされたということの控え目な表明なのだと認識しています)。
(引用開始)
私がこの本を書いた時は、私の狙いは哲学的なところに充てられていた。すなわち、アングロアメリカ系の哲学者が想定する仮定を批判するためのものであり、その批判対象とは意味のある議論はなんであっても形式的な用語に置き換えられるということについてであった。その形式は三段論法としてではなく、アリストテレス自身にとっては、いかなる推論も”三段論法”または”ひとつながりの言明”と言い切ることも可能ではあるのだが。しかし、この種の三段論法が厳密に証明可能な演繹として認められるのはユークリッド幾何学くらいのものである。そこで、プラトンの父系が生まれ、二千有余年の後、デカルトによって復活させられたのである。(略)
いかなる意味においても、私はレトリックや議論の理論を拡張するつもりはなかった。私の関心事は20世紀の認識論であり、非形式論理ではない。ましてや、コミュニケーション学の学者の間で呼ばれるようになった”トゥールミンモデル”のような分析的モデルを想定していた訳でもない。(略)
”トゥールミンモデル”を自分のものではないとして捨ててしまうのは、不躾になるだろう。それは、『議論の技法』の予知できなかった副産物である。(略)ディビッド・ヒュームが”人間本性論”(これも世に出た時は本著同様の敵対的出迎えを受けたのだが)を、”印刷機から死産して出てきた”と記述したのを覚えている読者もいるだろう。ヒュームとならび称されるほど名誉なことはない。(スティーブン・トゥールミン『議論の技法』はしがき)
(引用終了)
この引用から分かるのは、この本の明確な主題です。
主題は批判であり、その批判とは、「意味のある議論はなんであっても形式的な用語に置き換えられるということ」に向けられたものです。
トゥールミンモデルを引き剥がそうとする情熱を感じさせつつ、トゥールミンは本書の狙いを哲学であり、20世紀の認識論である(非形式論理ではない)と語っています。
余談ながら、トゥールミンは本書の中で(ほぼ最終盤に)幾何光学について語っています。でも、幾何光学はフェルマーによって完成しましたが(そう、あのフェルマーによって)、そして僕らは学生時代にあの間違った(いや、近似解の)フェルマーの幾何光学を正しいものとして教わります(でも、そのFactは簡単な実験で否定できるるので、Claimは否定されるのです)。フェルマーの幾何光学とは、光は直進、反射、屈折するというものです。いや、たしかに光は直進するし、反射するし、屈折しますが、それはある条件下においてのみです。
たとえば、二重スリット実験を考えてみたら、光が直進するならば、そもそも干渉模様は出現しません。
そして幾何光学を最初にまとめたのはユークリッドでした。ユークリッドによってまとめられたユークリッド原論とそっくりの(共観福音書くらいにそっくりの)幾何光学に関する書があります。それはユークリッド原論のように公理から始まり、幾何光学の定理がまとめられます。
この種の三段論法が厳密に証明可能な演繹として認められるのはユークリッド幾何学くらいのものである
これは事実ですが、そしてそれは幾何光学についても当てはまるのですが、それはヘーゲルの言う何でも可能な妄想の中だけです。
第一にユークリッド幾何学は、発展的に否定されました。
たとえば、地上に(ナスカの地上絵のように)描いた厳密な三角形の内角の和は180度にはなりません。
赤道上に2点を北極点か南極点に1点を置いて直角三角形を描きましょう。
そのとき直角の数は3つになります。内角の和は270度です。
理想的な地球を考え(完全な球体という意味です)、その表面は二次元ですので、ユークリッド幾何学のFactが否定されます(ご承知のとおり、これを非ユークリッド幾何学と言います)。
幾何光学もまた発展的に解消というか否定され、ファインマンの経路積分がその上位互換となります。
話を戻すと、イエス・キリストの教えとキリスト教会の教えが異なるように、トゥルーミンとトゥルーミンモデルは異なるのです。
ただし、トゥルーミンはイエス・キリストと違って、トゥルーミンモデルが自己増殖している様を眺めることができ、そしてそれを「副産物」と言うことはできました。
同様に、Dr.Tもディベートで超人脳へと言う明確なメッセージを出しているようで、それは知の遠近法としては悪い意味でロングショットでの見方です。きちんと引きで見ると(クローズアップすると)、こんな風に書かれています。
ここにもダイジンがいるのです。
ディベートで鍛え上げた論理の世界、理性の世界は、何度も言うように「現状の最適化」の世界です。資本主義という奴隷社会において、理想的な奴隷になる。これが現状の最適化であり、理性の世界の行き着くところです。(苫米地博士『超人脳』)
ディベートというか、トゥルーミンロジック(モデル)をなぜ使うかと言えば、最短時間で最適解に到達するためです。
ディベートとは最適な答えを最短で導き出す技術である(p.27 苫米地英人『ディベートで超論理思考を手に入れる』)
それは、最短で効率よく「理想的な奴隷になる」方法に化してしまうことでもあるのです。
だからこそ、僕らは現状の最適化を素早く達成したあとに、そこから密教的な跳躍が必要になるのです。それが神を超えるという超人なのです。
「超人」とは「人」の領域を超え、神の領域をも超えた人です。(同p.35)
まず最初に、「論理脳」をつくります。物事を徹底的に論理で考える力をつけるということです。この「論理脳」を極めることで「超人脳」への道が拓けます。
論理を徹底的に極めていくと、ある瞬間、論理を超えることができます。こうして論理を超えた人が「超人」なのです。(同p.18)
そして、超えたあとはその論理ごと捨て去る必要があります。
*こちらはウィトゲンシュタインのお墓にあった梯子(いつもあるわけではないそうで)。
(引用開始)
私の諸文は、私を理解する者が、それらを通じて――それらによって――それらの上へと昇ったあげく、それらがナンセンスだと認識すること、そのことを通じて解明する。(彼は、謂わば梯子を登ってしまってから、それを抛棄しなければならない。)
彼はこれらの文をのりこえなければならならず、そうすれば、彼は世界を正しく見て取る。
(ウィトゲンシュタイン 命題6:54 論理哲学論考)
(引用終了)
上記はこちら↓からの孫引き
*ここにヒュームも言及されていますね。
*ここでは、そう見えることと現実が違う例として、錯視が上げられています。
「指差し確認」は大事!
同様に、同じものを眺めていても全く逆に見えることはよくあります。
ある人には老婆に見えて、ある人には若いご婦人に見えたり、ある人には一卵性の双子に見えて、ある人には二卵性の双子に見えたり(性別が違ったり)。
前者はともかく、後者はエビデンス(FACT)で否定できそうです(音共感覚者には厳しいのかも、声優さんが同じだそうで。いやでも演じ分けているか)。
同様に、早とちりしてしまうと、別の姿として認識して、トゥルーミンたちが意図していない方向へ闇落ちしてしまうのです(たとえば理想的な資本主義の奴隷になるとか)。
僕らはゆっくり学びましょう。
指差し確認しながら、ゆっくり学びましょう。
急がば回れです(Fasitna lente)!!
【海と空と太陽と!】
*長年、熱心に学ばれているメンバーさんから素敵な風景のおすそ分けです!!
昨日は、こんな場所を散歩して来ました
どうにも、海と空と太陽と
キラキラの輝きが好きです
おすそ分けと言えば、玲さんが新之助くんの「毛抜き」を見てきたそうで、お土産をいただきました!(セミナーで配りました!ありがとう!)
そうそう、新之助くんの「毛抜き」は素晴らしかったです。僕の予想は大きく間違っていました。彼が背負ってきたものと鍛錬を思うと本当に感動的でした。