Quantcast
Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3544

その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、難しい漢字のならんだ古色蒼然たる書物の中に残っている、

$
0
0

自分にはまだ分からないことがあり、「全く微動もしない非情な岩壁」があるということを、知っておくことはとても大切だと思います。

それも骨身に染みて知っておくことです。

「ああ、全く分からない。どこが分からないかも全く分からない」と頭をかち割りたくなる絶望です。

真っ暗闇です。真っ暗闇な真の絶望を知っておき、そこが自分の居場所だと理解しておけば、人生はもっとやさしくなります。

逆に人生はもっとやさしい場所で、「分からない」と言えば、わかりやすく教えてくれる大人がいると思っており、自分がわからないのは説明の仕方が悪いのだと思っている人には、人生は相当なハードモードになります。でも彼らは運が悪かった、先生が悪かった、タイミングが悪かったと言い募り、シェイクスピアの言うように「きっと星のせいじゃない」とは言えないのです。

 

The fault, dear Brutus, is not in our stars,
But in ourselves, that we are underlings.

(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』

 

たとえば山に登り、そして道を外れて、遭難したとします。

間違ってショートカットだと勘違いし、川を下り始めたりすると、地盤がゆるすぎて滑落していきます。滑り落ちていき、止まることがありません。たまたま木にひっかかるなどして止まったとしてもそれは一瞬のこと。また次の瞬間には滑り落ちるでしょう。

自分は生き延びたいと願っても、自然界においては、自分は虫けらのようなものですし、物理法則が前面に出ている以上は、水で滑りやすくなり、水でゆるんだ地盤で転げ落ちずに済むことはありません。

そのときに「尾根を歩け」という指示の大事さを痛感します。間違っても小川を下ってはいけません。

そして一度でも遭難し、絶望すると、そして万が一生きて還ってくることができたら(できたら独力で、もちろん自力など無いのですが)、世界観は一変するでしょう。

子供らしい夢の世界を捨てて、凶暴で残酷で不条理で、あなたを「わらの犬」(老子)とも思わない天地のリアリティーに少し触れることができます。
ダイジンとはオオカミのこと。

 

 

 

知りたいと思うのは結構なのですが、「それは今の自分には難しすぎてまだ分からない、いや一生分からない(転生せねば)」という諦観が前提であるべきです。

 

心が幼い大人たちは、「知りたい」が「教えて下さい(教えろ!)」という命令になり、「理解したい」が「理解できるはず」、「理解できるはずなのに、教え方が悪い」、「どこに書いてあるか教えて下さい(教えろ!)」という風に変節していきます。

 

繰り返し言っているのは、読解力を身に着けよ、そして追加したいのは謙虚であれ、ということです。謙虚というか、以前から言うように「ヒュブリス(傲慢)を避けよ」なのですが、傲慢な人ほど、「私は傲慢ではない!」と断言されるので、こちらとしては伝える言葉を持ちません。

 

バカほど自分のことを過大評価するというのは社会科学的な知見です。

 

*橘玲さんは大好きで、全て読んでいますし、繰り返し読んでいますが、今回の著作はどうしても受け付けませんでした(自分自身の問題はあると思いますが)。

 

「ブログ、難しいです」と言う割には、なぜセミナーの内容がすぐに分かると盲信するのでしょう(それをペロッと偉そうにブログに書くやつに対しては、ピカソモードを発火させて「それは俺の友人だ」と言うようにしますがwバカは死んでも治らないので。不治の病に対して怒る俺がアホ)

「全く分からない、、、」だから、繰り返し繰り返し受講して、繰り返し繰り返し視聴するのです。

 

読書百遍意自ずから通ず

 

は事実です。

セミナーだけではありません。

たとえば映画を一度だけ見て、あとは映画評や最近ではYoutubeなどの動画解説を見て、分かったような気になっておしゃべりするから(それでも間違えて尊敬されたりして)、だから成長しないのです。

 

書籍も繰り返し繰り返し読むものです。

数回読んだだけで、「何回も読んでます」などとは恥ずかしくて言えないのが通常です。
(当然ながらブログも同じ。「自分が何も読めていない」ことが分かってもなお、何度も読まないでいて、「ブログ読みました」と言い募るその感覚のおめでたさにはどんな薬をつけても、王様の馬と家来が駆けつけてもどうにもなりませんw)

 

以前、「まといのば」のNGワードとして知られていたものに「わかりました」があります(今はそんなことはありません。あそこからずいぶんとバカに寄せていっています)。「わかりました」がグリンピースの塩ゆでのようなもので、一切の理解を閉ざすからです。

間違って「わかりました」などと言おうものならば、泣くまでその内容を解説させて、無知を暴いていました(昔は優しかったですね。今は優しさを繕って、そのような指導をしません。すなわち、そいつは無知を知らずに人生を終わるのです)。

 

「無知の知」は傲岸不遜のソクラテスにしては、正しい話しなのです。
養老孟司先生の編集者はそれを「バカの壁」と名付けました。

 

「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれもこれも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岩壁であった。

 まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。するとその一ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まるで巨大な岩山であった。
「ひらけ、ごま!」

と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岩壁であった。夜ごと、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。(湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想』)

 

 

そういう壁と一秒も人生の中で向き合ったことがない甘やかされた愚鈍な動物が列を成しています。

僕はそんな動物でも、きっとコンバージョンのチャンスがあると信じてきました。

しかし、ルー・タイスが正しかったのです。

 

シェイクスピアの一節を口ずさみながら、自分のこれまでの愚かさを噛み締めたいと思います!

 

 

【素読紹介】

 

そのころの私の好きな遊びは、箱庭であった。平たい長方形の鉢の中に、こけを入れ砂をまいて、景色をこしらえる。お宮さんや、鳥居や、農家や、橋を適当に配置する。するとそこには、小さな世界が出来上がるのである。私にはそれが楽しかった。

しかしある日、ーーー私が五つか六つの時だったろうーーー父は祖父に、

「そろそろ秀樹にも、漢籍の素読をはじめて下さい」

と言った。

 その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならんだ古色蒼然(こしょくそうぜん)たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ、突然入ってゆくことになった。

 ひと口に四書、五経というが、四書は「大学」から始まる。私が一番初めに習ったのも「大学」であった。

 「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれもこれも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岩壁であった。

 まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。するとその一ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まるで巨大な岩山であった。
「ひらけ、ごま!」

と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岩壁であった。夜ごと、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。(略)

 暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。(略)

けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛翔をはじめることがあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っているだけだ。

(湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想』)

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3544

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>