僕の母方の祖父は浄土真宗のお坊様でした。本名ではなく戒名を普段使いしていました。僕は生れたときから祖父の戒名で接していたので、それが本名だと思っており、たまに届く郵便物に祖父の本名が書かれていて「誰?」と思った記憶があります。
「君の名は」ですね。おじいさま、君の名は?と聞きたくなります(嘘です)。ただ子供心に不思議でしたが、僕以外の人間は祖父が戒名を得る前を知っているので、違和感がなく、僕だけが不思議に思っていました。ル・コルビュジエになる前の人間がいて、エリファス・レヴィになる前の、空海になる前の、アブラハムになる前のアブラムの人間がいます。海老蔵さんもとうとう團十郎になります(おめでとうございます)。
祖父は熊本に住み、僕は両親と共に東京に住んでいたので、会うのは年に何回かでした。
熊本に帰ったときか、祖父母が東京に来るころでした。
東京の家はとても狭かったのですが、祖父母はなぜか東京滞在中に好んで寝泊まりしていました。祖父母の思い出は多くあり、そして一日一日揮発します。祖父が予言していたとおりです。
祖母は自分の寝室の真ん中にある電灯(糸のようにスイッチが垂れていたのです、昭和は)のスイッチに自分の帯紐をからめて床まで垂らしていました。起きた瞬間に電気のスイッチを入れられるようにです。当時は朝起きても真っ暗でした。雨戸というシャッターのようなシステムがあり、光がほとんど入らないのです。ですから、まず電気をつけます。その電気のスイッチのシステムを自分の暮らす空間と同じにすることで、祖母は一瞬にしてAwayをHomeにしていました。娘夫婦の暮らす家に最小限の機能を加えることで、自分のいつもの空間に変える様が見事だなと子供心に思いました。
何回かしか合わないのですが、会うたびにたくさんの話を聞きました。
朝の散歩と夕方の散歩が日課の人で、それに飼い犬のようにつきまとうのが大好きでした。
そのときに祖父はいろいろな話をしてくれたのですが、多くは仏教説話でした。
彼が口にし、僕の耳に入ったもので、今ボクのバックボーンになっているものは多くあります。
ざっくりと言えば、たとえば弥陀の本願です。
第十八願の臨場感はきわめて高く、自分が阿弥陀様になったようでした。
南無阿弥陀仏の言葉の意味を一音一音説明してくれたりもしました。
蓮如上人を厳しく批判しながら、しかし親鸞亡きあと廃れた浄土真宗を復興させたのは彼だとも評価していました。残らなければ、自分には伝わらないというジレンマを抱えていました。
浄土真宗がいまや仏説ではなく、イソップ物語を語っていると嘆いていました。
親鸞が息子の善鸞を義絶する話は、自分が息子を勘当するかのような臨場感で、親鸞に深く同情し、一方でその決断力を評価していました。親鸞の息子として影響力がある善鸞をそのまま放置してはいけない(距離も離れていました)と判断しての義絶でした。また返す刀で、善鸞の気持ちも解釈しており、善鸞がなぜ闇落ちしたのか、なぜ最善を意図して最悪の結果を招いたのかも語っていました。
将棋の米長邦雄さんをなぜか音読みで「ベイチョー」さんと呼びました(ヨネナガ先生です)。偉大な人で、AIに最初に負けたのはこの米長邦雄先生です。未来永劫勝てないとしたら、最初に負けた人類は永遠に名を残します。
この米長さんのことを評価しており、いろいろな話をしてくれました(忘れました)。さわやか流と泥沼流が同居する不思議な人でした。名人になったときに、来年はあいつがやってくると予言し、そして名人を奪われました。それが羽生善治先生。そして、渡辺明さんは今回、その言葉を踏襲しませんでした。相手は藤井聡太先生です。
二河白道の話をしてくれ、それは小学生時代の苦しいときに(たとえばマラソンw)心の支えになりました(これは本当)。
祖父が死んだ日にこのブログは奇しくもスタートしました。
1記事も投稿したあとに介護のために熊本に帰っていた母から旅立ったという連絡がありました。
当時はせっせと昔の写真をiPad的なフォトスタンドに送っており、祖父の古い写真などをスキャンしては、そのフォトスタンドに送っていました。熱中していたので、すぐに作業ができ、祖父が喜んでくれたのが嬉しかったです。その意味では「あのときやっておけば良かった」という後悔はありません。
またこのブログは僕自身の頭の中のアップロードという以上に、祖父ご自身の転生だと思っています(と幾度もこのブログに書いています)。
ヒーラー/メンター養成BootCampが始まっています。
そのフィードバックなども続々と公開したいのですが、干支のようにアイディアの順番待ちが殺到しており、そして長く滞留すると腐っていくのが心配です。まあ、心のままに書きます。
何を書こうか思い煩う必要もなく、書くべきことはきっと与えられますね。
12:49
わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
12:50
わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。(ヨハネ12:49−50)
*ただ氷川丸のことは書きたい!
ヒーラー/メンター養成BootCampでは何らかの共通のワークは考えています。
名付けて天才プロジェクト(ってマジ?)、いや、今何も考えずに書いたら出てきました。
天才を育てるためのプロジェクトです。
万巻の書を読んでいるのに知性を感じない人と、文字が読めないのに知性を感じる人がいます。その違いはWant toだと僕は思いますが、それはさておき、今まで勉強してきていない方がいかに短時間で効率的に知性を身につければ良いのでしょう。
これは簡単です。
寄ってたかって「いいひと」を作るのです。
ギルドでもまれながら、いいひとを作ります。
とは言え、第1世代は僕が直接教えます(第2世代からは第1世代が教えます)。
いま0期と1期がスタートしています。今年中にスタートするメンバーは1期とします(来年から230万円に10万円値上げします。これは円高による為替レートを考慮したものです。半分嘘です。というか、為替が物価に影響しないと考えるほうが異常です。少なくとも値上げは本当です)。
で、その0期や1期、そして特別枠などの方には僕が直接教えます。
それを「まといのば」では「口伝」と言い、口から口へと伝えると言います。口から耳では無いのです。一見すると教師の口から、生徒の耳への空気の振動に感じます。でも違うのです。それが脳内に染み込み、そして自然と口をついて出てくるまでが「口伝」です。家に帰るまでが遠足、タクシーで自宅前までついて、ベッドに入るまでが深夜3時、5時が普通となったカンファレンスです。
この口伝を重視し、そしてEchoの実習として、暗唱を重視します。
これもきわめて身体的なもので、頭で暗唱したり、Echoするのではなく、身体を駆使して行います。
1つのことを1つずつ学ぶのではなく、超並列処理で学ぶと脳は加速します。リニアに学ぶと遅いのに、パラレルで考え初め、加速させると気持ち良く明晰判明(イマヌエル・カント)になります。この疾走感を味わうともうやみつきです。
たとえば、絵画の遠近法を学びながら、最後の晩餐の消失点がイエスのアジュナにあることを知り(実際に糸で線を引いてあり、その跡が残っている事も知り)、旧約聖書を学び、ヨブ記(Job)というジョブズ(Jobs)並の不条理な神様の話を口伝されると、ヨブ記を読むのが楽しみになります。返す刀でモーセ五書を学び、モーセと神様の夫婦漫才が微笑ましいです。旧約の神は人間に寄り添っており、人間味あふれたいい加減な神様です。しかし、新約の神は前回の反省を生かして(ヨブの訴えを無視しました)、神様は愛そのものながら無限遠になります。それが宗教絵画の遠近法です。消失点のようなものが新約の神なのです。なんていう話をテクストではなく、耳で自分に語りかけられている言葉として聞くと全然違います。
これが口伝です。
暗唱を混ぜながら、理論のチャンポンを適切に配置される凄い口伝というのは、凄い人をつくります。そのすごい人が集まっているギルドに飛び込めば、寄ってたかっていい人を作り出せます。
人間の內部表現というか、ブリーフシステム(信念体系)というか、心と身体というか、重要性関数というか、そういうアルゴリズムはエロスとタナトス(性と死)でできています、いや、もといロゴスとミュトス(論理と物語)でできています。
論理性は大切ですが、ミュトスを徹底的にEchoすることで、圧倒的なヒーラー/メンターの力がつきます。
18:11 すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。(ヨハネ18:11)
トゥーランドットで言えば「誰も寝てはならぬ」のです。イエスは謎が解けないでいるのです。
ただ、ヒーラーは寝るのが仕事、眠いのに起きて祈ることはないので、眠りながら最善を意図しましょう!