ルー・タイスの魅力はその厳格さと、やわらかさでした。
硬さとやわらかさが同居しているような不思議な人でした。
厳格さは神から来ており、やわらかさは神の愛から来ているのかもと勝手に思います。神というのが適切ではないように聞こえるならば、信仰ですね。彼は深い信仰をもとに、その宗教色を消して、心理学の体系としてコーチング理論を創りました(もちろん最後の理論はDr.Tに換骨奪胎してもらい、認知科学にアップデートしてもらいましたが)。
なぜコーチング理論がキリスト教的と言えるかは、かつてセミナーでも話しました。実際に聖書の章句とルー・タイスを並べてみると、聖書というのはきわめてルー・タイス的です(逆ですね)。「あ、聖書って自己啓発本なんだ」って分かります。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコ11:24)
c.f.そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 2019年03月13日
*我々は「信じなさい」というような宗教の言葉に躓(つまず)きますが、認知科学的に言えば、「信じる」ことが弱いのではなく、臨場感が足りないだけです。臨場感が高まれば、それは現実の臨場感をたやすく上回ります(瞑想ですね)。それを楽しんでひたすらに続けると、現実が変容していくのです。それが理論のポイントです。
これを丁寧に読むならば、ルー・タイスのアファメーションが心に立ち上がってきます。
肝は「すでに叶えられたと」信じることです。そうすると、そのとおりになるのです。
もしくは、ルー・タイスがなぜ不可能に思えることにも果敢に飛び込むことができるのか、死を賭してもにこやかに挑戦できるのかと言えば、そこには「あなた」が共にいてくださるという感覚があるからです。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。(詩篇23:4)
Even though I walk through the darkest valley, I fear no evil;
for you are with me;
c.f.たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです(詩篇) 2021年05月16日
いや、イエスのように十字架にかけられて、召されるのもまた神の御心ならば、それも本望ということなのでしょう。
夢を生きるというのは、「死の陰の谷を歩む」ことです(多分)。
ハロウィンで再上映中のプペルの言葉を借りれば、ゴミ人間として生きるということです。
ゴミ人間というのは非常に屈折した表現で、人々が捨ててきた夢とは、捨てたのだからゴミでしょという意味です。
夢を捨てて(悪い意味で)大人になるとするならば、捨てたその夢はゴミである、と。そのゴミを後生大事に抱えている人はゴミ人間として蔑まれるのです。蔑まれているのか、それとも嫉妬を覚えられているのかちょっとわかりにくいですが、少なくとも夢を持てば笑われ、叩かれるのはおそらく事実でしょう。
♫夢を持てば笑われて
声を上げれば叩かれる
見上げることができない町で
ボクはどうだ?♫
*「ボクはどうだ?」という問いかけが痺れますね。
いや、笑われたり、叩かれているうちが華で、そのうちに誰もいない世の裏側をひとり孤独に歩いている気がしてくると思います。そのとき、我々は死の陰の谷を歩いているのです。絶対的な孤独の中にあって、神なり愛の存在を理性的に感じられる人は幸いです。感覚は役に立ちませんし、感覚的には神は不在だからです(いや、全知全能の神は理性的にも不在ですがwでも、ほぼ何も知らずほぼ何も出来ない神様は情報空間にいても良いのです)。
*イエスであってさえも、神の不在を痛感する闇堕ちの瞬間があったのです。いや、ゲッセマネの祈り以上に十字架における詩篇の叫びかもしれませんが(エリ・エリ・レマ・サバクタニ「神よ、神よ、なぜ見捨てたもうたか」)。
「アッバ、父よ、あなたにはすべてのことがおできになります。この杯をわたしから取り除いてください。それでも、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」(マルコ14:36)
死の陰の谷を歩いて、そこで世界の真理のような宝を見つけたとします。
そして、それを持って、山を降りたとします。シナイ山から降りたときのモーセのように。
余談ながら、モーセは神様から二枚の石版をもらいます。今にまで伝わる重要な宝物を授かるのです。十戒ですね。
それも、神様ご自身がお手ずから彫って書かれた石版です。
ちなみに、それを下山途中に怒りにかられて、割ってしまいます。自分が連れてきた民が、実はパリピで自分の不在中にめっちゃ盛り上がっているのに怒り狂うのです。これってコントですよねw。
c.f.彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた(エクソダス32:19) 2015年02月22日
話を戻します。
絶対的な孤独(と無理解)の中で、人類にとっての宝を見つけた我々は、多くの場合は火炙りに、もしくはラッキーだと喝采に見(まみ)えます。
もしかしたら最近の若いカップルのように複雑性PTSDになってしまうような、批判や罵詈雑言の雨かもしれません。
使命感の中で、その宝をシェアしながら、ふと気付くのは、自分がいる場所はここではなく、また深い闇の中、深い孤独の中であるということです。
死の陰の谷こそが自分の故郷であることに気付くのです。
それを踏まえて、親鸞の「地獄一定」を読み直すと別な感慨が生まれます。
いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(親鸞『歎異抄』)
c.f.上澄みだけを掠め取ろうとするから、薄っぺらになる。♬毒を食らわば皿までも♬ 2015年01月05日
c.f.それどころか、医師のところに行く前に神のもとを訪れていたら、狂気の沙汰と考えられていたに違いない 2020年07月04日
ですから、我々はいつも闇の中に戻りましょう。
自分を慕ってくれるクライアントが深く闇に落ちているのであれば、優しくついていきましょう。「優」とは人を憂うると書きます。そこから一緒に這い上がっていきましょう。
それがルー・タイスの柔らかさと厳格さの源泉であったように、今は思います。
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