柔軟性というのは赤ん坊にとっては筋肉量が無いだけのことですが、大人にとっては正しく身体が使えているという意味です。これは大きな違いです。しばしばこれを脱力というキワードでまとめてしまうことがありますが、そうすると本質が見えなくなります。
いやたしかに「まといのば」もその誤解を助長していた部分はあるかもしれません。言い訳をさせてもらえるならば、かつては筋肉をゆるめてはいけないという風潮がありました。アン・ドゥオールは力ずくでやる、お尻は締める、と。昨今はそれが逆回転しています。まずゆるめろ、と。リラックスして脱力せよ、と。それは間違っていはいませんし、赤ん坊のようなフワフワな筋肉は理想です(いつもフワフワではありません。猛烈に固くなることもあります。知らない人に抱っこされたりすると特に)。
赤ん坊は筋肉がほとんど無いですし、鍛えられていないので柔らかく感じます。大人も赤ん坊と同じ筋肉の組成ですが(タンパク質なので)、使い方が異なります。大人はいつでも収縮させ続けることが可能です。それが硬い身体といこうことです。筋肉自体はやわらかいのです。ハードウェアは柔らかいですし、同じなのですが、ソフトウェア(使い方のアルゴリズム)が異なるのです。
アン・ドゥオールが硬いというのは、アン・ドゥオールが硬いように、開かないように身体を使っているというだけのことです。
ですので、その学習をし直すことが重要となります。
ちなみにテクニックが強く見えて、きちんと踊れるように見える子たちの多くがアン・ドゥオールが不十分であり、骨板や股関節に着目すると内股であることが多いです。これはいわゆる「足の力」が強いために起こります。足の力が強いと、それだけで立ったり、デベロッペしたりすることが可能です。しかしわずかに股関節をゆるめて、膝をゆるめます。ゆるめるというのはここでは曲げるということです。これは足の筋肉を強く使うために、どうしても足は太くなります。それだけ鍛えるからです。
それに対して、足の力が無い子たちは、そのような荒業が不可能なために、バランスと関節の可動で足を操作します。あたかも大道芸人のように複雑なバランスを計算しきって足を操作するために、微細な力で行い、優雅です。非常に稀ですが。
バレエ団が欲しいのは柔らかいダンサーではなく、柔らかい上にコントロールが効くダンサーです。柔らかさだけであれば新体操やコントーショニストのほうがはるかに柔らかいです。
しかし張りのあるコントロールといことで言えば、バレエダンサーが上です(これは種目の正確によるものです。優先順位の違いです)。
実際にプロになってからの伸びを考えると、いまテクニックがあるかどうかよりも、いまきちんと身体を開いて使えるか、きちんとセンターが通っているか、そして品があり、華があるかが重要になります。
とあるバレエ団の指導者が「テクニックは入ってからいくらでも教えられるから、まっすぐで容姿が綺麗であればいい」とおっしゃっていたのを聞いたことがあります。変にテクニックが強くて癖があるとそれを取り除くのが大変だとも。それがコンクールダンサーの厳しさであるとも言えます。評価のための踊りは芸術のための踊りとは異なる場合があります。そんなダンサーをバレエ団が欲しがるでしょうか。コンクールを否定するわけではありません。上達のための縁(よすが)とするのであれば、良いと思います。またチャンスが広がる好機でもあります。ただ本末転倒してはいけないというだけのことです。
バレエ団が欲しいのは、まずはきちんとコール・ド・バレエが踊れること、その他大勢にきちんとそまれる無垢さが欲しいのです。あえて文学的な表現をすれば、どんな役柄にも変わることができる純粋さです。それにはきちんと訓練された身体が欲しいわけであって、それは見た目のテクニックではなく、内側に動くアルゴリズムです。しかしきちんと内側にあるアルゴリズムがしっかりした上で、圧倒的なテクニックがあるのであれば、それは素晴らしいことです。
↧
アン・ドゥオールは柔軟性ではなく、筋肉の正しい使い方の知識と実践でしかないことについて
↧