ザッカーバーグのスピーチを繰り返し見ているとある種の既視感のようなものがあります。
シニカルに言えば、まだ世界を信頼していた頃の原風景が蘇るような感じです。
そしてともかく明るいし、臨場感が半端ないし、熱量もあるし、引き込まれます。
彼の人間的魅力にやられますね。
既視感とか、原風景と言いつつ、彼の言う世界観なり、視点を取り入れたいと強く思いますね。取り入れるというか、戻るという感じでしょうか。
世界に対してどのような態度を取るか、どのような視座を取るかということと、生き方はリンクします。
世界は競争に満ち溢れていると考える人は、いつも敗者になりますし、世界が陰謀に満ちていると思う人は、人を信じられなくなります(いま起きている状況は陰謀というよりは、分かりやすい劇場型犯罪みたいなものです。陰謀ならばもっと上手に騙して欲しいと思いますね〜)。
逆に宇宙が味方してくれると思っている人は、そうなります。
(肯定的な物言いはプリミティブに感じるものですが、シニカルで否定的な言い方は名言に聞こえるのも、認知のゆがみかもw)。
人から軽蔑されている感じている者が、人を軽蔑の目で見がちなのは理解できることだ。(オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」)
*私事ながら、この一節に出会ったときには頭を撃ち抜かれたような衝撃を受けました。おそらく小学生か中学生の時分でしたが、まさに自分のことだと思ったものです。
T理論を煎じ詰めていくと、ひとつには視点の問題が出てきます。
TENETの順行、逆行と似ていて、お互いに同じ空間を共有しているのに(そして時間も当然に共有しているのに)全く違う世界を生きています。
多数決で言えば、順行が圧勝する世界で、逆行として生きようとしたら、順行側の視点も正確に理解する必要があります。それも肌感覚で。
そうでないと対話が成り立たないのです。
ザッカーバーグはこう言います。
(引用開始)
理想主義的であること自体は良いんです。しかし、誤解しないようにしなくてはいけません。大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされます。たとえ最後には正しかったとわかる場合でもね。複雑すぎる課題に向かっているすべての人が、自分がやっていることを十分に理解してないとか言って責められます。事前に全部わかってるなんてことが全く不可能な場合であってもです。
イニシアティブを取るすべての人が、急ぎすぎだと非難されます。いつだってもっとゆっくりさせたい人たちがいるからです。
僕らの社会では、あまりにミスを恐れるあまり、もし何もせずにいたらそもそも全てがダメになってしまうということを忘れてしまって、結局何もせずにいてしまうことがよくあります。そりゃ何をやっていても、それなりに未来に課題はうまれますが、しかしだからといって、「それを始める」ことから逃れることはできません。(引用終了)
和訳はHuffpostより。
大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされるからと言って、狂人がすべて大きな目標に向かっているわけではありません。
ただ、少なくとも「大きな目標(Purpose)に向かっている全ての人」は、狂人扱いされるとザッカーバーグは言います。
であれば、狂人扱いする人たちの視点も理解するしか無いのです。その視点に同意することも、賛同することもなくても、理解することはできます。
奇しくもザッカーバーグのフェイスブックが反トラスト法違反で提訴されました。
(引用開始)
【シリコンバレー時事】米連邦取引委員会(FTC)は9日、反トラスト法(独占禁止法)違反で、インターネット交流サイト(SNS)最大手フェイスブック(FB)を首都ワシントンの連邦地裁に提訴した。検索やデジタル広告をめぐり司法省が10月にグーグルを提訴したのに続く、米巨大IT企業を狙い撃ちにした独禁訴訟となる。(引用終了)
学校の教科書では、いかに独占が悪かを教わります。
そして市場は自由競争によって、良い商品が安価になると教わります。
でもそれは国家の視点でしかありません。
たとえば、ピーター・ティールは競争は悪で、独占こそが重要と言います。市場を独占せよ、と。
正しさの基準は人の数だけあります。いや、人の数の数倍、数十倍かもしれません。同じ人でも基準がコロコロ変わることがあります。
正しいとか、正義とか言う言葉がちらついたら、常備したいのが、「これからの正義の話」です。
この本を読むと、「正しさ」というものが、いかに(本人が見えていない)イデオロギーに支配されているかがよく分かります。そして、「正義」って単なる感情の派生系でしかないことも分かります(自粛警察は正義の人です)。
猿の世界であっても、平等や正義の概念が本能的にあります。
我々も何かを考えるとき、判断するときに、どのイデオロギー、どの視点、どの立場でいま考えているのかを問うと良いかもしれません。
問い続けているうちに、メタ視点で観れるようになります。
同じ人間でも複数の「正しさ」があると述べましたが、それが明確なのが、家族の視点と自由市場での視点です。
ご承知のとおり、ジェイン・ジェイコブズの市場の倫理、統治の倫理です。
「市場の倫理、統治の倫理」をざっくりまとめれば、家族や共同体の中での脳の働きと、自由市場の中での脳の働きは全く違うということです。真逆です。
自由市場でフェアで、暴力を忌避する人が、家に変えると暴力的で、ヒエラルキーを重んじたとしても、それは「普通」のことなのです。
同じ人間なのに矛盾しているというわけではありません。
なぜなら、市場においてはお互いが平等であり、暴力は忌避されるのが正しいとされます。
でも、それは家族や共同体では悪なのです(統治の倫理の中では)。
むしろ不平等であるべきであり、そして暴力はむしろ肯定されます(だからこそ、会社でも学校でも暴力は根絶できないのです。なぜなら統治の倫理は暴力をむしろ肯定されるからです)。
この枠組を理解しておけば、自問自答できます。「いま自分はどちらの倫理空間で思考しているだろうか」と。
これもまた大きな意味で「視点」であり、視点の移動となります。
とは言え、「自分はそういう視点による思考の束縛から自由である」と考えるのも、ヘーゲルに言わせれば妄想ということになります。僕らはその轍(わだち)からは逃れらません。でも少しでも知ることによって少し自由になれるのです。
自分のイデオロギーや、自分の考え方の癖、パターンなどを少しでも知ることで、轍から解放されます。
大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされます。たとえ最後には正しかったとわかる場合でもね。
c.f.彼らはただ見えないのです。そのために私を狂人だと思っているのです(ルータイス) 2020年03月28日
その狂人扱いしたくなる気持ちもどこかで冷徹に理解しておくことです。
あなたを狂人扱いする人に対しても、理解を示せるようにしておくことです。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイ5:44)