気功である程度、仕事をするようになると、最初のうちは非常に楽しいものです。
楽しさと忙しさにかまけて、忙しく働けば働くほど実力がつき、自分の成長を自覚でき、それもまた楽しいものです。
マタイ効果はこんなところにも働くな〜と思いながら、どんどん雪玉が大きくなっているのに気づきます。実力がつくのです。
もちろん、実力がつけばつくほど、難しい症例が降り注いでくるので、それも若さゆえの勇敢さと大胆さでクリアしていくでしょう。
しかし、あるとき、ふと自分が「暗い森に迷い込んで」いるような気がするときが来ます。
ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。(ダンテ 神曲 地獄編冒頭)
c.f.ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた〜量子力学へのパラダイム・シフト〜 2014年02月03日
結果も出しているし、具体的で客観的なフィードバックも取れている、、、クライアントさんは喜んでくれるし、、、理論も実践もしっかりしている、、、はず、、、、
でも、、、
という恐怖が襲ってきます。
(ダンテの神曲の地獄編の冒頭は、ワクワクではなく恐怖ですw
ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!
と続きます)
気功師が観るビジョンというのはきわめて主観的できわめてオカルト的、もしくはスピっぽく感じるのです。スピっぽくなるのを嫌ったにも関わらず、呪いや呪詛、生霊、場の霊などの話をスラスラしている自分がいるのに反吐(へど)が出ます。
あわてて、トラウマだとか洗脳だとか、情報場とか、それっぽい「科学風の」言い方に切り替えてみても、結局見えるのは、蟲や霊たちであり、怨念であり、執着であり、嫉妬(しっと)や怨嗟(えんさ)です。地縛霊が見えて、辟易(へきえき)とすることもあります。
そして周りに集まってくるのは、人生が退屈で仕方ないから、スピリチュアリズムに傾倒(けいとう)するおバカさんか、人生が退屈で仕方ないから、次のカタストロフが起きるまで放射能や最近の感染症にパニックになるアホどもです。
スピリチュアリズムが嫌いで、気功の世界に入ったつもりが、ミイラ取りがミイラになった気分です。
自分がかつて唾棄(だき)していた存在に、自分がなっていて、そして周りにも取り囲まれている、と。いつウォーキング・デッドのひとりに噛まれたのだろうと、朦朧(もうろう)とする頭で考えたくなります。
(その意味で、鬼滅の刃の禰󠄀豆子は非常に面白いと言えます)
これはこれでひとつの闇です。
その闇の中で、おそらく唯一の救いになるのは、リベラルアーツなのではないかと「まといのば」では思っています。リベラルアーツというのは自由七科ですが、平たく言えば教養。
それも真の教養ですw
いや、真の教養と、わざわざ大上段に構えることもないのでしょうが、薄っぺらい大量消費社会では、教養すらも気楽に購入可能なアイテムになっているきらいがあります。
「1日1ページ読めば1年で教養が身につく」と本気で信じているならば、「このサプリを飲めば、あなたも3年後にノーベル賞を取れる」と言われても飛びつくでしょう。
「まといのば」が体育会系が好きなのは(いや、別に体育会系は好きではありませんが、そういう印象があるという意味で)、高校時代などにスポーツに打ち込んでいる人(子供の頃からプロを目指して踊ってきた人)などが持つ一定のコモンセンスがあるからです(コモンセンスをこういう使い方をしてはいけないのは重々承知で)。
それは、「薄っぺらい大量消費社会」のポリシーと真逆のものです。
膨大な時間と情熱を注がないと手に入らないものがあり、注いでも手に入らないこともあるということを身に沁みて知っている人は強いのです。
ラグビーでも野球でもバレエでもダンスでも(もちろん勉強でも)良いのですが、自分の限界を超えて、日々とてつもない努力をしてきて、それでも叶わないことがたくさんあることを知っているというのは、素晴らしいことです。
自分を変えるのは「言うは易く行うは難し(口で言うのは簡単だけど、実行するのは大変)」なのです。
そういう人こそが、教養を身につけると強いと言えます。
リベラルアーツというのは救いです。
僕らは、社会から間違ったメッセージを受け取っています。それは発信者側の問題なのか、受信者側の問題なのか、双方なのかは分かりませんが、間違ったメッセージを受け取っています。
そして、「それ(そのメッセージ)が間違っているよ」ということを教えてくれるのが、リベラルアーツです。真のリベラルアーツは世の中を全く違う様相で見せてくれます。
、、、、と、こんなに長く前置きを書くつもりがなかったので、そろそろ切り上げます。
たとえば、最近の「まといのば」のブームは脱洗脳です。
脱洗脳というとおどろおどろしい感じがしますが、実際はもっとおどろおどろしいものですw
で、情報の網の目を相手から剥(は)がしてあげることで、パフォーマンスが著(いちじる)しく改善します。
その作業が上手になればなるほど、だんだん自分がスピリチュアリズムに絡め取られる気がします(そう、脱洗脳は「作業」なんです。気功も)。
スピリチュアリズム的な考え方が猛烈に役に立ちますし、見えない情報を可視化しているときに、霊とか蟲(動物霊)とか、怨念(おんねん)とか怨嗟(えんさ)とか嫉妬とか、死んだ人とか生きている人とかいろいろ見えます。見えてしまう自分も嫌ですし、それがズバズバ当たるのも、嬉しいようで、嫌になります。
自分が単に深いトランスの中で、クライアントもそのトランスに引きずり込んで、2人でラリって夢を見ているだけなのかな、とも思います(大変失礼な言い方ながら、たとえば前世療法などはその類だと思っています。と、以前もブログに書き、そしてスクールを開催しました。過去生退行をガンガンやって、そのあと未来世退行までやった伝説のスクールですねーーーー)。
ただ、前世療法が、どこかで科学と決別しなければいけなく、パスカルの意味で「賭け」をしなくてはいけないのに対して、僕らはどこまで酔っ払っても、どこまでシラフでいたいと思っています。
情報空間は物理的現実世界とは地続きなのです。
理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。(ヘーゲル『法の哲学』)
酔っ払って、地面から足が浮いてしまっても、それでも結果が出せればOKというヒューリスティックな立場はそれはそれで尊重します。
しかし、我々としては、地に足がついているからこそ力が出ると考えます。
とは言え、科学から遠く離れ、知的世界から遠く離れ、スピリチュアリズムのど真ん中で途方に暮れて、「私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」感じがするのも事実です。
繰り返しますが、だからこそ真のリベラルアーツが必要になります。
(「まといのば」としてはそのために寺子屋シリーズを開講しています)。
c.f.すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもの(デカルト) 2017年04月21日
わたしはずっと以前から、そもそもはギリシャの詩人たちを読みながら、人類の歴史において、きわめて優れた才能の持ち主だけが重要なのであり、彼らと知りあうための唯一の方法は、その作品に直接触れることだという確信を持っていた。(p.44 ヴェイユ 「ヴェイユ自伝 上巻」)
というのも、真のリベラルアーツは、我々が誤ってスピリチュアリズムっぽいと自己反省する現象にとても近いからです(←わかりにくい)。
ちなみに結論を急ぐと、、、、この(真のリベラルアーツの)視点を少しでも獲得したあとに、再び洞窟の中の現実世界に戻ると、自分が何も見えないことに気付きます(擬陽性問題を無視したPCRテストや、医療資源を無視した「だれでも、いつでも、何度でも」も、右手では感染拡大と言いながら、左手でGo to政策をしたり、大恐慌が来る前のバラマキとか。身銭を一切切らなかったフランジスタが京大の教授になるとか)。
そこに論理性も合理性も一貫性も何も見えないのです。
これはプラトンがソクラテスの口を借りて言ったとおりです!(洞窟の比喩で)
洞窟の外に出たあとに、外の光に目が慣れたあとに、再び洞窟に戻ると、、、預言者、故郷に入れられず、なのです。
はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。(ルカ4:24)
c.f.「呪い」を知ることの重要性~イエスの呪い 2011年03月08日
*ちなみにここにはイエスが弟子たちに能力を伝授したことにも言及しています。
また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え(マルコ6:7)
まあ、結論を急ぎすぎですね。
もとに戻りましょう。
今日、紹介したいのはケインズ。
ケインズ卿と言えば、経済学者であり、その経済政策が有名ですが(いまのバラマキ政策とケインジアンは無関係と信じたいえすが)、経済学の聖書とも目される「一般理論」をしっかり読んだ人は少ないでしょう(他の聖書と同様にw)。
というわけで、ケインズと言えば(ハイエクともども)毎回紹介するのがこの動画。
c.f.ケインズvsハイエク ラップで加速学習! 2012年03月26日
(この当時のスクールが第5期ヒーラー養成スクールです。いまBootCampでがんばっているメンバーの中には、この5期ヒーラー養成スクールの受講生もいます。
8年って長いようで、あっという間のようで)
ケインズに関しては、ニュートン評なども紹介したいのですが、割愛します!( ー`дー´)キリッ
ケインズはニュートン研究でも有名でした!
(引用開始)
十八世紀およびそれ以後において、ニュートンは近代に属する科学者の最初にして最大の者であり、合理主義者で、また冷ややかで混じり気のない理性に従って思考することを教えた者と見られるにいたった。
わたくしは彼をこのようには見ていない。一六九六年に彼が最後にケムブリッジを去ったときに荷造りをした、そうして一部散佚したけれどもわれわれに伝わっているあの箱の内容をよく検討したことのあるものならだれも、そういう見方ができるとはおもわない。ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。アイザック・ニュートンは、一六四二年のクリスマスに生れた父親のない遺児であって、博士(マギ)が心からのしかもふさわしい尊敬を捧げることのできる最後の神童であった。(ケインズ「人物評伝」p.316)
*紹介していますが、、、www(解説を割愛します)
c.f.咒(しゅ)の密教気功スクール開催!13期ヒーラー養成スクール 2015年10月16日
で、結論というか、本題に飛びますが、、、、脱洗脳をしながら、何か緑色の蔦をゆっくりと剥がしていく作業をしていて、自分は何をやっているのだろうかと暗い森の中でひとり佇んでいると、ケインズが草葉の陰から怒鳴ってきます(怒鳴りそうですよねーケインズ)。
彼はこう叫びます!!
「困難は、新しい思想にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されてきた人々の心の隅々にまで広がっている古い思想からの脱却にある。」(J.M.ケインズ 雇用・利子および貨幣の一般理論 塩野谷祐一訳 序文より)
これは是非、英語で味わいたい文書です。
原文で。
The difficulty lies, not in the new ideas, but in escaping from old ones, which ramify, for those brought up as most of us have been, into every corner of our minds.
c.f.難しいのは、新しいアイデアを開発することより、古いアイデアから逃れることである 2012年04月08日
そうすると、ケインズの原文をしっかり読むと、古いアイデア(Old Ideas)が、私達の心のすべての角(Every corner)にRamify(分岐して)いるのが分かります。心の隅々まで広がっているのです。
ただし、教養ある人のみという限定も。
ですから脱洗脳というのは、ボックスを取り出すようなものではなく(当初はそれでOKです)、だんだんと心のすべてのコーナーに分岐しているアイデアを剥がすことなのです。
というか、感触がそっくりであることに、実際に脱洗脳を繰り返している人は気付くのです。そしてそのとき、自分を理解し、ケインズを少し理解できるのです(多分w)。
ケインズがわざわざこういう書き方をしているということは、ケインズはこのことに気付いていたということです。
ですから、一般理論は彼がかつて信奉していた経済理論を粉々に粉砕し、執拗に攻撃することにほとんど割かれています。なぜなら、そうやって、やりまくることでしか、心の隅々まで広がるアイデアを取り除けないからです。
真のリベラルアーツは、そういう気付きをもたらしてくれます。
孤独の中で、自分だけが暗い森の中に唯一人となり、正しい道を歩いている気がしないときに、灯火となってくれます。
c.f.♬だって私、恋しているの、私の未来と。彼女に会うのが待ち遠しい♬(ビリー・アイリッシュ) 2020年08月01日
p.s.もっと言えば、我々の先輩方はその闇すらも、先に体験し生き残り、解説してくれています。
イエスのゲッセマネの祈りはもとより、ケインズはニュートンを「ニュートンは一つの問題を数時間も、数日も、数週間も、ついにそれが彼に秘密を打ち明けるまで、心の中に持ち続けることのできる人であったかとおもう。」(ケインズ『人物評伝』)と評価しました。
そして、アンドリュー・ワイルズ博士(フェルマーの最終定理を証明)は、闇について、以下のように語っています。
*ワイルズ博士がフェルマーの最終定理を証明した瞬間(というか、最初の発表のときです。このあと誤りが発見され、それまでの10年以上の深い闇を経験します)。
(引用開始)
最初の部屋に入ると、そこは暗いのです。真っ暗な闇です。
それでも家具にぶつかりながら手探りしているうちに、少しずつ家具の配置がわかってきます。
そうして半年ほど経ったころ電灯のスイッチが見つかるのです。
電灯をつけると、突然に部屋のようすがわかる。
自分がそれまでどんな場所にいたかがはっきりとわかるのです。
そうなったら次の部屋に移って、また半年を闇の中で過ごします。
突破口は一瞬にして開けることもあれば、一日、二日かかることもありますが、いずれにせよ、
それは何カ月ものあいだ闇の中で躓きながらさまよったからこそ到達できるクライマックスなのです。(引用終了)