「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とは孔子の言葉です。
やりすぎなのは、足りないのと同じくらい良くないよ、という感じです。
過剰を戒める言葉です。
これは孔子の弟子に対する評価の話です。
弟子のひとりが、AさんとBさんのどっちが優秀ですか?と孔子先生に聞きます。
(いやーーー、、余談ながら、、、弟子のひとりが師匠の孔子先生にそんなカジュアルに他の弟子の優劣を聞いちゃうんですね〜。
「まといのば」でそんなことを聞いたら、確実にぶっ飛ばされそうですよね。
ウサギとカメの話でもされて、「お前はお前のゴールだけ見ていろ!」とか言われそうです。
もしくは、ソクラテスのように「ほう。では聞くが、お前にとって、優秀とはどう定義されるのかな?」とか逆質問されそうですw)
c.f.ウサギは亀だけを見つめ、亀は現状の外のゴールだけを見つめていた。 2015年01月07日
まあ、それはともかく、AさんとBさんの優劣を聞かれた孔子先生は、
Aは過ぎたり、Bは及ばず、と答えます。
合格点が80点だとして、1人が90点を取り、1人が60点だとしたら、90点を取ったほうが合格であり、優秀だと考えそうなものです。
ですので、質問した弟子は、じゃあ、Aさんの方が優秀なんですね?と孔子に聞きます。
すると、孔子は答えて曰く
過ぎたるは猶及ばざるが如し
と言います。
(引用開始)
子貢問 師与商也孰賢 子曰 師也過 商也不及 曰 然則師愈與 子曰 過猶不及
子貢(しこう)問う、
師と商と孰(いずれ)か賢(まさ)れる。
子曰(いわ)く、師や過ぎたり。商や及ばず。
曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし。
(孔子『論語』)~
(引用終了)
平たく言えば、多くてもダメ、少なくともダメ、適当な量が適当なのです!!
まさに、これはアリストテレスの中庸(メソーテス)です(というか、メソーテスの訳語である「中庸」自体がもとは孔子の言葉です)。
中庸の徳たるや、それ至れるかな(孔子「論語」)
まあ、それはともかく、この「過ぎたるは猶及ばざるが如し」がドーシャの肝です。
ドーシャというのは、アーユルベーダにおける体質のことです。
風と火と水の3つのコップがあり、そこに入っている生命エネルギーは一方で病気のもとであり、不純であふれやすいものです。
クンダリーニでも、チャクラでも、生命エネルギーをネガティブに評価するのは、アーユルベーダの特筆すべき点です。
そして足りないものを補うという現代的な考えではなく、過剰を戒めるのがアーユルベーダです。
まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」なのです。
という講座を昨日やりました。
実際にドーシャの過剰とはどんな感じなのか、そしてドーシャの過剰がなくなるとどれほど身体が代わり、心が変わり、ホルモンが変わるのかを体感してもらいました。
非常に面白ったと思います。
この先は、ドーシャが見える目を持ち、ドーシャの過剰に気付くことです。
そして、その見方で世界を切り、補助線としていくと面白くなってきます。
たとえば、ラビリンスのジェラス、、、
ちなみに和訳版がありましたので、貼り付けておきます。
雨に嫉妬したくなる、、雨粒は君の肌に触れられるから。
風に嫉妬したくなる、、君の身体に君の影よりも近づけるから、、、、
むしろ雨になりたい、風になりたい。君のそばで眠る闇夜になりたい、、、、
と切々と歌い上げますが、これは失恋の歌のようでありながら、(ポール・マッカトニーのYesterdayと似て)4歳のときに自分たちを捨てて出た父親への切ない想いが下敷きになっているそうです。
ここに雨は出てきており、風は出てきていますが、燃えたぎる炎は無いのです。
Kapha(水)であり、Vata(風)ですが、Pitta(火)は無いのです。
♫今年も海へ行くって いっぱい映画も観るって 約束したじゃない あなた約束したじゃない会いたい♫ 2020年07月15日
*沢田知可子さんの「会いたい」では、海、雲、波とKapha(カパ:水)のドーシャが溢れています。
話変わって、寅さんに関連して、1人の友人が晩年の渥美清さんのインタビューを紹介してくれました。
そこで、渥美清がこうおっしゃっています。
いつもフーテンの寅さんでいることを求められることに辛さを感じると言いながら、続けてこう言います。
飛べー飛べーって言われても
スーパーマン飛べないもんね
針金でつってんだもんね
と。
切ないセリフですね。
渥美清さんはKapha(水)の体質であり、義理人情にあふれる役柄を演じるのには向いています。義理人情のまとわりつくような湿気を嫌がる人も多いでしょう。義理人情は涙であり汗というKapha(カパ:水)なのです。包容力はありますが、停滞しやすいのです。
しかし、フーテンの寅さんの体質はVata(風)です。フーテンだけに。
風のようにあちらこちらを旅します。言葉が重いようで軽く、軽いようで重いのです。Vata過剰とKapha過剰をうろうろします。
役柄のドーシャ体質と役者のドーシャ体質の矛盾が寅さんの魅力の源泉であり、それが
飛べー飛べーって言われても
スーパーマン飛べないもんね
につながるように思います。
一方で、トム・クルーズはトム・クルーズです。
彼は自らプロデューサーになり、身銭を切っています。
トム・クルーズはVata(風:ヴァータ)Pitta(火:ピッタ)です。
役柄と自分が合っているのです。
そして、高高度からの落下を映画で成功させたあとは、Vata(ヴァータ:風)を発揮させて、ISSで宇宙で映画を撮影します。
「飛べ、飛べ」と言われなくても、トム・クルーズは飛ぶのです。
それは体質(ドーシャ)に合うからです。
しかし、寅さんには合っていないのです(渥美清さんとフーテンの寅さんが)。
(後述しますが、だからこそ最高のキャスティングなのですが)
そしてもっと突っ込むならば、役柄の寅さん自身も二重性を秘めています。
彼は心に思うマドンナがいながら、現実世界では別なマドンナを追いかけます。
だから甥っ子のみつおに、
手の届かない美しい人には夢中になるけれど、その人が伯父さんに好意を持つと逃げ出してしまう
と言われます。伯父さんとはもちろん寅さんのことです。甥っ子のみつおに見抜かれているのです。
だからこそ、愛について定義してみろと言われて、寅さんは「常識だよ〜」と言ってしまうのです。
「常識」から程遠いはずの寅さんの口から常識という言葉が出るのは違和感があります。
この違和感こそが、寅さんの二重性の証明です。
だから、スクリプトには感動できても、寅さんの口から聞くとなんともうそ寒く聞こえます。
c.f.この人のためだったら命なんていらないもう死んじゃってもいいそう思う。それが愛ってもんじゃないかい 2020年07月21日
*5分30秒あたりから始まります!
その二重性、すなわち「本音で本当は生きていない」ところが、映画を観る大衆に強くウケたのではないかと思います。
見ている大衆もまた本音では生きておらず、寅さんのような自由に生きている人も本当は「本音では生きていない」もしくは本音で生きようとして失敗するところに溜飲を下げるのでは、と勝手に邪推します。
本音で生きることは難しいと思われがちですし、実際に難しいのでしょうが、しかしポストコロナに必須な能力であり、実際はどの時代を通じても必要でしょう。
そして、Skin in the game(身銭を切る)な生き方をすれば、たとえ火炙りにされようが、磔(はりつけ)にされようが、胸を張って「いま、お前は私と共にパラダイスにいる」と死んでいけるのだと思います!(多分!!)。
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23:43)
c.f.自由であることの不自由、不自由であることの自由 2011年11月24日
というわけで、アーユルベーダはますます面白いと思います!!
引き続きお楽しみに!!!