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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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狭き門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入っていく者が多い

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気功の能力というのは、一般的には超能力のようなもので、圧倒的な結果をもたらしてくれます。

 

そして、その圧倒的な結果に対して、傲慢に陥ってしまう人が多く、傲慢になった瞬間に足元が崩れ落ちていき、奈落へ真っ逆さまになります(でも落ちている最中にも気付いていなかったりします)。

 

 

*地獄の底で頬杖をつくルシファーは、しかし神への愛の中でそこにとどまっています。堕ちたわけではありません(堕とされたのです。DVな旧約の神によって)。

ルシファーは怒りを買うことがわかっていても、神への愛に生きたのです。

しかし、いま落ちていっている奈落は望んだものではなかったはず。

 

 

キリスト教ではヒュブリス(傲慢)と言いますが、このヒュブリスは足音もなく近づいてきて、あなたの心を奪っていきます。

 

傍から見ている分には、傲慢に陥っているのはとても良くわかるのですが(岡目八目ですね)、本人は熱狂しているのか、自己承認欲求を満足させたことに対する油断なのか、気付きませんし、聞く耳も持ちません。

 

滅びにいたる門に吸い込まれていくのが見えるだけに無念です。無念ですが、シュバルツシルト半径を超えたようなもので、もう助かりません。

 

(聞く耳を持たない相手には伝えないことを「豚に真珠」戦略と言います。言わないかw

 

でも、「まといのば」としては、その事実を実際に直接本人に伝えるのはやめました。

 

聞かれても別に答えません

 

「羹に懲りて膾を吹く」なのでしょうが、もう噛みつかれることにかなり懲りました。

 

懲りましたし、無意味なことをするほどの時間のゆとりはありません)

 

 

彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろうマタイ7:6

 

 

このパターンで幾度も「まといのば」に通う先輩方が苦汁をなめてきており、その話も繰り返しするのですが、、、、なかなか学ぶことは難しいように思います。

 

 

幾度も紹介しており、恐縮ですが、僕は『大衆の反逆』でオルテガが書いている言葉が非常に納得がいきます。

 

(引用開始)
誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になんの制限も加えないこと、自分にはいっさいのことが許されており、なんの義務も課せられていないという印象を彼に与えることである。こうした条件のもとで育った人間は、自己自身の限界を経験したことがない。外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特にいかなる人間をも自分に優る者とはみなさない習慣がついてしまう。自分よりも優れた人間がいるという感じを彼に実感させうるのは、彼よりも強い人間が、彼に欲望の一つを放棄するように強制し、分を守り控え目にするように義務づけることができた場合だけである。
(引用終了)(オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」pp.80-81)

c.f.「この新しい大衆は、彼をとりまく世界に甘やかされてきたのである」(オルテガ) 2015年12月14日

 

 

もしくはルー・タイスが僕らの心を拳で殴りながら、耳元でささやいてくれる次の言葉です。

 

 

(引用開始)

「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ? 君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ。

私になぜ走りたいかを話した。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要などないんだよ。レースを終える必要なんてないんだ。いつだって止まることができるんだ」(引用終了)(ルー・タイス『アファメーション』)

c.f.「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ?君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ」(ルー・タイス 2019年02月09日

*私事ながら、つい先日バルバッコアというブラジリアンバーベキューのお店へ行きました。

ルーと同席させていただいたお店で、ルーのことを懐かしく思い出していました。そのころはルーとはいつでも会えると思っていましたが、もちろんそんなことはありません。まさに全ての瞬間が一期一会です。分かっていても怠惰な僕らは忘れます。

 

 

しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。マルコ14:7

 

 

機能として考えたときには、「まといのば」はオルテガの言う、「彼よりも強い人間」を求められているのだとは思います。

 

そのように指摘してくる方も大勢います。

 

(たとえば「まといのば」のクライアントではなく、「まといのば」のクライアントのクライアントさんから、「おたくのメンバーの教育がなっていないけど、教育をきちんとしろ」と言われるのですwww

 

面白いですよね。

 

「教育がなっていない」って何様視線なんだろうというのもそうですし、自分の教師の教育がなっていないと感じるなら、その教師を変えれば良いことですし、そしてその責任を「まといのば」に押し付けるというのもユニークです。

 

いや、気持ちは分からないではありませんが)

 

 

で、「まといのば」のメンバーの半分ほどの(それも目立つ方)が「分を守り控え目にするように」にできていないのは重々承知です。

で、それについては具体的にも、間接的にも幾度も指摘しています(ダイレクトにはもうさすがに言いませんが)。

 

で、ここまではいつもの話です。

 

 

 

ここからは傾向と対策です。

 

あ、ちなみに、「まといのば」は「彼よりも強い人間」として機能する気はありません。

たぶん、能力の輪の外なので。

 

自分よりも優れた人間がいるという感じを彼に実感させうるのは、彼よりも強い人間が、彼に欲望の一つを放棄するように強制し、分を守り控え目にするように義務づけることができた場合だけである。

 

前は瞬間湯沸かし器のようにしょっちゅう怒っていましたし、怒りがベースでしたが、それが機能しないことが分かって、最近は戦略を変えました。

言っても無断なことは、言わないようにしています(で、こういうブログを書くことで気付くことを期待していますが、大概は誤爆か、もしくは気付かずですwただ1%の可能性と後進への期待で書いています)。

 

 

で、繰り返しますが、ここからは傾向と対策です。

というか対策です。

 

結論から言えば、「狭き門から入れ」をオススメします。

 

 

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

 

 

というのも、本来の聖書の意味とはズレるのですが、言いたいことは「もっと自分の過去に縛られたらどう?」という提案です。

 

ご自身がやってきたこと(何も成し遂げたことがないことは重々承知ですが)をベースに、自分のブランディングやメニューやサービスを考えるということです。

 

苫米地理論においては、「過去は関係ない」のはその通りですが、それはあなた自身の中での話です。

クライアントにとっては、美辞麗句以外の参照ポイントがないのは怖いのです。

言葉ではなんとでも言えるよね、ってクライアントサイドは思うのです(なぜなら、それまでさんざん騙されてきているので)。

 

ですので、自分が成し遂げてきたことをベースにして、その狭き門から入ったらどうでしょう?というオファーです。

 

面白いもので、人間は自分が所有しているものには価値を見い出せないのです。過去も同じです。全く評価しない癖があります。

 

「釣った魚に餌をやらない」というやつですね(ちょっと違うか)。

 

自分が成し遂げてきたことには価値を見い出せないという心の働きはよく分かりますが、クライアント視点で言えば、過去はあなたを判断する上で重要です。

 

もちろんここで言っているのは資格とか経歴ということではありません。そんな浅薄な話ではなく、、、、臨場感です。

自分がどっぷりと関わり、どっぷりとハマったものには強い手触りがあり、臨場感があります。

そこを土台にして、気功のエッセンスをパラパラと振りかければ非常に良い商品になります。

 

臨場感が変わるのです。

 

 

あまり言いたくないのですが、昨日聞きかじったことを今日書いているから、底の浅さを見透かされるのです。突き詰めて考えてもいないし、裏も取っていません。

 

それに「それって聞き間違っているよね」ってことも多くあります。

 

もっと人生をかけてやってきたことがあるはずで、それを軸としながら、昨日聞きかじったことを徹底的に実践して、自分なりの軸に絡ませた上で書けば、圧倒的な臨場感が出てきます。分厚さが出てきます。

そして、もっと戦略的に考えるならば、その自分の軸を伏せておけば、底の浅さではなく、底の果てしない深さを感じさせられるのです(多分w)。

 

自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。(リルケ「若き詩人への手紙」)

c.f.あなたがまだ本当の〇〇でないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言い聞かせよ 2018年08月07日

 

 

それとこっそり言いたいのは「もっととことん使ってから紹介したらどうでしょうか」ということです。

 

僕がすごいなと思うメンバーは、本当に些細な情報でも、とことんやり続けることで、圧倒的な結果を出してきます。突破口にしてしまいます。本当に些細な情報に敏感に反応して、圧倒的な結果につなげるのです。

 

以前も紹介しましたが、ある武術系のヒーラーさんは講座でチラッと紹介した大転子のワークをその後500人に試して、自家薬籠中の物にしました。

この方はともかく大量にやる人です(それだけのクライアントさんを抱えているということでもありますが)。

 

同様に今、Boot Camp組でも活躍しているのは、サロンでセラピストとして働いている人々です。

彼らは翌日からクライアントにこっそりと試せますし、結果も確認できます。

大量にやることが大事です。

逆にそういう場がない人でも、とことん自分に仕掛けていくことはできますし、声をかけて友人とかにモニターになってもらうのも良いと思います。

 

 

ここで、こっそりと本音を言いますが、情報が民主化しているとか、情報の価値がゼロに近づいているというのはそう思わせたい人たちがバラまいているフェイク・ニュースです。もちろん以前に比べたら、ネット時代というのはそういう部分もあるかもしれませんが(「まといのば」もそう主張していましたし)、空海が長安にいたころを考えると、メディアが今と比べて圧倒的に劣っていても、最大のメディアは人であり、それを動かすエンジンは好奇心である以上は、情報はきちんと拡散します。

 

たしかに、グーグル先生は神でしょうが、一人の人間が処理できる情報量をはるかにオーバーした世界である以上は、情報の価値はうなぎ登りです。人間ごときの人工知能(脳)では全文検索できないからです。総当りできない以上は、僕らはもっと深い無知の闇に沈み込み、その世界においては、別の理想的な可能世界に移動させてくれる知識や情報は希少なのです。

 

ちなみに知識や情報がデータだと思っている人はパラダイム・シフトが必要です。

簡単に言えば、「豚に真珠」現象があるということです。

データはデータですが、それを処理する知性との相関でしか、真珠は真珠にならないのです。ですので、豚にとっては「真珠」は存在しないのです。データがあると言い張っても、その人の宇宙にはないのです。

 

これを踏まえると、エネルギーの散逸という概念は、我々の知識の程度しだいということになる。取り出せるエネルギーとは、望ましい経路ならどんなものにでも導くことのできるエネルギーだ。散逸したエネルギーとは、手に入れることも、意のままに導くこともできないエネルギーで、たとえば、我々が熱と呼ぶ、分子の混沌とした運動状態がそれにあたる。ところで、この混沌とは、相関名辞と同様、物質自体の属性ではなく、それを認識する心との相関によって規定される。

c.f.PとCに(順列と組み合わせ)ビックリ!(階乗)しないでエントロピーを考える。 2013年09月22日
c.f.この混沌とは、相関名辞と同様、物質自体の属性ではなく、それを認識する心との相関によって規定される 2019年11月30日

 

情報や知識をペラペラな符牒のように感じている人が多いのですが、そのような律法学者に対してイエスはシンプルに「行ってそのように為せ」と言います。

 

「あなたも行って同じようにしなさい」

Then go and do the same thing,

(“Go, and do thou likewise.”KJV)

c.f.【イエスの聖書学】♪誰かを愛することは、神のそばにいること♪ & むきだしの愛 2013年08月19日

 

認識が変わると、宇宙が変わり、結果として行動が変わるのです。

知識をコレクションできる何かと勘違いしている人は、自分も知識の側からコレクションされます。

 

狭き門から入りましょう!!


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