手からすぐに逃げていく幸福をいつも追いかけている人と、いつも幸福でいる人がいます。
幸福はいつもわれわれの手から逃げて行くといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分でつくる幸福というのはけっしてだまさない。(アラン『幸福論』)
これをアランはもっと痛烈で明確に言っています。
この文章を踏まえると「しかし、自分でつくる幸福というのはけっしてだまさない」の意味もクリアになってくるでしょう。
ところが、砂糖菓子は何もしないでも溶けて美味しいものだから、多くの人はそれと同じように、しあわせも味わえるだろうと思うから、だまされてしまうのである。(アラン『幸福論』)
c.f.♬シンデレラ、あなたは幸せだったの?幸運だったの?夢見ていた「夢」を手に入れて、本当はどうだったの?♬ 2018年07月27日
同じように考えて、同じように行動しているように見えて、全く異なる世界に住んでいることがあります。
誰かが走っているときに、それは大喜びして「ユーレカ」などと叫びながらなのか、それとも恐怖の中で誰かから逃げているのかは、一瞥(いちべつ)するだけでは、分かりません。
家をつくるためにレンガ積みをしている3人の子豚がいたとして、その3人が3人(いや、3匹か)ともに同じことを考えているわけではありません。
3匹の子豚は、それぞれ藁と木とレンガで家を作りましたが(兄弟仲良く同じ家で暮らすという発想はなかったんでしょうかねw)ここでは3匹ともレンガで家を造っているという設定です。
彼らにインタビューしたとします。
「あなたは何をしていますか?」と。
そうすると1人目は「見れば分かるだろ、レンガを積んでいるんだよ」と答え、
もう1人は「立派な家を造っているんだ」と答え、
最後の1人は「立派な家がたくさんある街を私はこの手で造っているんだよ」と答えるかもしれません。
同じ行動をしていても、どこに視点があるかで変わってきます。
c.f.シシュポスのレンガ積み 〜「遠くを見る」だけでも、細部への徹底的なこだわりだけでもダメな理由〜 2015年01月12日
3人目(いや3匹目か)が一番幸福であることは言うまでもありません。
3人ともブラックな環境で働いているのにも関わらず、ストレスレベルは全く異なります。
同じ作業をしていても、抽象度の違いはあらゆることを変えます。
もちろん生産性も疲労回復の度合いも。
(おばあちゃんから頼まれた面倒な漆喰塗りを素晴らしいレジャーにしてしまったのは、トムソーヤでした。見事なトークでお金を払ってもやりたい「遊び」に変えてみせたのです)
c.f.ミク、歌舞伎に出るってよ 〜 A-I will destroy Humans?! 〜 2016年05月03日
「英国の富裕な紳士の中には、夏のあいだずっと、四頭立ての乗り合い馬車を操り、毎日同じ三十、四十キロのルートを走らせる人たちがいる。そうするのは、この特権を得るのに相当な金がかかるからであって、もしこれに対し賃金の支払いを申し出られたなら、それは仕事となってしまい、彼らはたちまちやめてしまうであろう」(トムソーヤの冒険)
そしてもっと大事なのは、幸福な人というのは、何を造っているにせよ、そのレンガをひとつひとつ積んでいくこと自体が楽しいのです。それ自体もまた楽しいのです。驚くほどに。
誰でもあの石工たちが暇をみては自分の小屋を建てているのを観たことがあろう。石工たちが石を一つひとつ選んでいるところを見ているはずだ。この楽しみはどんな手仕事にもある。(アラン『幸福論』)
シーシュポスの神話という悲惨な神話があります。
岩を毎日、山頂まで上げるのですが、頂上に着く直前に岩は落ちていきます。
繰り返し繰り返し無益なことを繰り返すという絶望を表します。この無為さが人生にも通じるということで、カミュも小説のタイトルにしています。
ティツィアーノ作『シシュポス』
しかし、プリズナー・トレーニングのポール・ウェイドはそうは考えませんでした。
不幸な話だ。しかし、彼の太ももは素晴らしいものだっただろう。(ポール・ウェイド『プリズナー・トレーニング』)
最高です!
僕らもこうありたいものです。
ポール・ウェイドにとって、立派な太ももを造り上げることにフォーカスがあり、重要性があるので、岩がどうであろうとそれはどうでも良いのです。
むしろ毎回山頂から転げ落ちてくれるので、翌日またトレーニングができて嬉しいくらいです。
それをニーチェは「なぜなら、華やかな全体像よりも、あまり重要でない小さなものを作ることのほうが楽しかったからだ」と言います。
c.f.ボブ・ディランよりもボブ・ディランらしいスティービー・ワンダー、オリジナリティなど幻想なのだから 2017年01月05日
↑先日のセミナーで話したボブ・ディランの創作の秘密についても書かれています。本人が見事に解説しています。
「華やかな全体像」というのは、「人からもらう幸福」のことであり、それは砂上の楼閣で、蜃気楼です。それに対して、「あまり重要でない小さなもの」とは内からあふれる誰も奪えない喜びです。内なる喜びです。
あまり重要でない小さなものとは、素晴らしい太ももであり、石工達がひとつひとつ石を選ぶ行為そのものです。
多くの成功者が結果にあまりこだわらず、しかし自分がいましていることにこだわるのはここにあります。ひとつひとつの作業を愛しており、楽しんでいるのです。その結果が素晴らしく評価されるものになろうが、そうでなかろうが、そこに大きな重要性が無いのです。
これは些細な差に見えるのですが、実際は大きな差であり、大きな違いをもたらす差です。
ユーレカと走るアルキメデスと、恐怖から逃れて走るのでは大きな違いがありますが、走っている姿だけでは区別がつきません。
一瞥(いちべつ)しただけでは到底(とうてい)区別がつかないからこそ、我々は丁寧(ていねい)に見分けなくてはいけないのです。
自分がいまどちらの幸福を手にしているかを丁寧に見分けなくてはいけません。
そして自分がこの先、どちらの幸福を手にしたいのかも。
【書籍紹介】
![]() | 幸福論 (岩波文庫) 972円 Amazon |
c.f.聖書や古典を声に出して誦む 〜幸福はいつもわれわれの手から逃げて行くといわれている(アラン)〜 2015年11月03日
(引用開始)幸福はいつもわれわれの手から逃げて行くといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分でつくる幸福というのはけっしてだまさない。それは学ぶことだから、そして人はいつも学んでいる。知ることが多くなればなるほど、学ぶこともますます多くなるのだ。そこからあのラテン語を学ぶ楽しみが生まれる。それには終わりがない、否、むしろ知識の進歩によって楽しみが増大している。音楽をやる楽しみも同じである。だからアリストテレスはあの驚くべきことばを吐いている。真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と。「楽しみは能力のしるしである」と彼はいうのだ。これはすごいことばだ。このことばは表現の完璧さのゆえに鳴り響き、学説をよそにしてわれわれの心を捉える。幾度否認してもついに無駄であった、この驚くべき天才哲学者を理解しようとするならば、この点をこそよく見なければんらない。何事をやるにしても、ほんとうの進歩をあかしするのは、人がそこでどんな楽しみを感ずることができるかである。そこからわかるのは、仕事は唯一のよろこび、それだけで満たされたよろこびであることだ。わたしが言っているのは、自分で自由にやる仕事のことで、それはつまり、能力を示すわざであると同時に、能力が出ている源でもある。くりかえすことになるが、人にやってもらうのではない、自分でやることだ。
誰でもあの石工たちが暇をみては自分の小屋を建てているのを観たことがあろう。石工たちが石を一つひとつ選んでいるところを見ているはずだ。この楽しみはどんな手仕事にもある。仕事をしている職人は何かをつくり出し、いつも学んでいるからだ。しかし、まったく機械的な作業は退屈をもたらすばかりでなく、時には大きな混乱となることがある。職人が仕事の分け前にあずかることがなく、ただいつも同じことを繰り返しているだけで、自分のやっていることから何も得ることがなく、それをもとにさらに学ぶこともできないような時には。これとは反対に、やらねばならないことが次から次へと出てきて、一つの収穫が次の収穫を約束すること、これが農夫の幸福である。わたしが言っているのは自由な農夫、自律の野人である。しかしながら、かなり骨の折れるこのような幸福に対しては、あらゆる方向から猛反対が起こる。それはいつも人からもらう幸福が欲しいという、救われることのない考えからである。なぜならディオゲネスの言うように、労苦こそよいものだから。しかし、精神はこの矛盾を担うことをよしとはしない。精神はこの矛盾を乗り越えなければならない。くりかえすことになるが、精神はこの思惟によってこの労苦を楽しみとしなければならない。 一九二四九月一五日(引用終了)(アラン「幸福論」pp.161-162岩波文庫)