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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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私の成功の秘訣は猛烈に働いたということよ。私は五十年間、どこの誰よりもよく働いた(ココ・シャネル

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高城剛さんが新刊で面白いことをおっしゃっていました。

 

現在のヨーロッパは落日の地域に見え、どの国も成長力が鈍いが、その理由は労働時間が著しく減っているからだ、と。

 

成長力が鈍っているのは、働いていないからだということです。

 

 

言いにくいことをバサッと言うのは素敵なことだと思います。

 

でも「もっと時間を費やせ」とはなかなか言いづらい空気があります。以前のように「寝ないで仕事しろ」など言ったら、魔女狩りに会いそうです。最近は僕も社会性を身に着けてきたのかw、(もしくは悪い意味で常識的になったのか)、あまり言わないようにしています。

 

 

ただし向学心があり積極的なメンター生には、「もっと勉強しろ」と言いますし、「もっと学べ」「一度読んだくらいでわかったつもりになるな」「一度、講義を受けたくらいでわかったつもりになるな」とは言いますが、、、、それはそういうカリキュラムだからです。受講生も覚悟はしているでしょうし。

 

本当のことというのは、耳に痛いものです。

しかし、成長は約束されます。

 

ですので、勉強には、猛烈な時間を注ぐべきです(だからと言って、短絡的に「会社を辞めて、24時間気功をやります!」というのはナンセンスです。会社で働くのもまた気功の良い練習です。そもそも会社をやめたくらいでは、大した時間は捻出できませんし)

(何度か紹介している「死ぬこと以外かすり傷」の箕輪さんは会社員です)
(会社の金でノーリスクでギャンブルができるのは最高です)

(投資家が稼げる理由は、運用するお金が自分のお金ではないからです。IQを維持するには、自分の身銭を切らないほうが良いのです。自分のお金が無くなると、人はパニックになり、IQが下がります。ですので、サラリーをコンスタントにもらいながら、週末起業するのはIQが維持できて良いのです)。

 

 

ただ一般的にはそんな本当のことは言えませんw(ブログなどでもなかなか言えません)

 

 

なので、いつもこんなジョークでお茶を濁しています。

 

マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらをもちたいか、ときかれる。

 

というお馴染みのジョークです。

 

奥さんと愛人のどちらもレーニンは欲しいと答えます。

それは奥さんと愛人が欲しいのではなく、それぞれの存在を理由にして、人里離れたところにこもって勉強したいのです。ニュートンがペストでこもったように、アインシュタインが数学ができなくて進学も就職もできず、仕方なく特許局で働いたように。

 

(引用開始)マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらをもちたいか、ときかれる。私的な問題に対しては保守的であったマルクスは、予想通り「奥さん」と答える。それに対し、享楽家であったエンゲルスは、愛人を選ぶ。そしてレーニンは意外にも「両方」と答える。なぜか。厳格な革命家というイメージの下に退廃的な享楽家が隠れていたからか。そうではない。彼はこう説明する。「両方いれば、奥さんには愛人のところへ行ってくるといえるし、愛人には妻のところへ帰らねばといえるからね・・・・・・」。「それで、あなた自身はなにをするのです?」「ぼくは人里離れたところに行って、一にも二にも勉強さ!」。(引用終了)(ジジェク『暴力』)

c.f. 奥さんと愛人どちらを持ちたいか? 2012年11月14日

 

*昨日紹介した小室哲哉さんと秋元康さんとの対談でも、一番忙しい時期が過ぎたと言う浦沢直樹さんが、「その時期はどれくらい続いたの?」という質問にさらっと「20年」と答えたのが強烈でした。ココ・シャネルが「私は五十年間、どこの誰よりもよく働いた」というのもむべなるかな(秋元康さんは「自分は日本一労働時間が長い」とおっしゃっていますし)

 

わたしの成功の秘訣は猛烈に働いたということよ。わたしは五十年間、どこの誰よりもよく働いた(ココ・シャネル)

 

 

猛烈な時間をwork(仕事にせよ、勉強にせよ)に割かないと、何事かを達成できません。

 

ただ、落日の日本でも、それは言いづらい空気はあります(二言目にはブラックと言われるのでw)。

 

高城剛さんはこう書いています。

 

(引用開始)

現在のヨーロッパは「落日の地域」に見える。どの国も、おしなべて成長力が鈍い。その理由は前編『分断した世界』にも記したが、社会が成熟し、国民の平均年齢が上がったことから、労働時間が著しく減っている点にある、と僕はみている。

 欧州内では働き者と言われるドイツ人でも、夕方5時になれば皆帰路につき、夏休みは数週間にわたって、しっかり休む。一方、インドをみれば、5時に帰る者は、ほとんどいない。この差は10年後に如実に表れることだろう。(引用終了)

 

have toで労働生産性が低い専門外の業務をひたすら長時間やるのは全く無駄です。

構造的な欠陥によって、我々が構造的にバカにされているのは事実でしょう。会社組織も官僚組織も、構造的に人を愚かにするようにデザインされているかのようです(減点法なんてありえませんし)。

ですので、繰り返しになりますが、have toで労働生産性が低い専門外の業務をひたすら長時間やるのは全く無駄です。

でも、want toで生産性が高く、専門の業務であれば、ひたすらやるほうが良いでしょうし、ものすごく頭の良い集団が、猛烈なスピードと猛烈な好奇心で爆走しているというイメージを持った方が良い気がします(ヒーリングの世界も)。

 

 

というか、自分自身がもっと成長したいと思い、もっと人に喜ばれたいと思うならば、本当に好きなジャンルを見つけて、そこに絞ってひたすらに楽しむことです。

 

 

 

好きこそものの上手なれ、です。本当に。

 

好きでもないことをやってはいけないのです(ただ食わず嫌いは避けたいのですが)。

 

食わず嫌いということで言えば、たとえば、人のためであれば、嫌いだと思っていたものが好きになることは良くあることです。

 

これは系が変わるからです。

 

自分のためにはできないけど、人のためだとつい身体が動いてしまうことはよくあります(ですので、エゴというのはいつも邪魔なのです。エゴは巨大なスコトーマとして働きます。自分が何を好きかを曇らせてしまいます)。

 

 

 

「仕事を遊びに」、などという言い方があります。僕もその本来的な意味には同意しますが、あまり声を大にしては言いません。なぜなら、そのときの「仕事」そして「遊び」の定義がおそらく決定的に違うのです。

 

平たく言えば、成功している人とそうでない人は決定的に違うのです(成功者という区分が雑で嫌なのですが、話は直感的でわかりやすくなります)。

 

ですので、どう議論しても、もともとの言葉の意味がお互いにズレているので議論が平行線をたどります。

 

 

want toやhave toを巡る議論も似ています。

 

wantが欠乏をあらわし、haveが所有をあらわしているという話は、セミナーなどで良くします。

 

それに対して、「欠乏感や虚しさが原動力になるという考えがよく分からない」という感想を稀にいただきます。

 

最近でもこんな質問がありました。

 

(引用開始)

虚しさを感じていてもゴールを目指すという感覚はどうやったら腹落ちするのかが分かりません。

 

どうも社会に対して虚しさを感じるとうつモードになって何も手がつかなさそうになるので困っています。

 

どうしたらいいかアドバイスのほうよろしくお願いします。(引用終了)

 

 

哲学者のアランではないですが、温かいココアと毛布でもこの質問者に渡したくなりますw

体が冷えていると、パスカルのように考え方の全てが冷たく凍るのです。

 

 

虚しさや欠落を感じるときに、自分がどこに視点を持っているかが重要になります。

 

我々はユニコーンは存在すると考えます。

可能世界も存在すると考えます。

ゴールが達成された理想世界も同様です。

 

むしろそちらの方がはるかに実在性が高いと脳が認識しているのです(身体が温まっていれば)。

 

ですので、いま「欠落」していることがむしろ驚きなのです。

いま「虚しい」ことが何かの間違いだと脳は認識するのです。

 

そして足りないものを埋めるのは楽しいゲームです。そのゲームを脳が勝手に始めるのです(これは本能的なものです)。

 

 

しかし、それがすぐに手に入らないことは分かっているので(←ここ重要です。これが「馬の口に人参を入れる」問題です)、猛烈に努力をするのです。猛烈に狂おしくそれを求めるのです。

 

ただ、前提として、それが確実に存在すると思っているので、安心してエネルギーと時間を献身的に注げるのです。それというのはゴールが達成された世界のことです。

 

 

ちなみに、エビデンスとして、成功を思い描くと成功しにくくなるというのはよく知られています。ですので「現状の外」という制約が必要です。現状の外というのは客観的なものではなく、きわめて主観的なものです。制約がなければ、ビジュアライゼーションはむしろ悪く働きます。臨場感を上げれば上げるほど、努力をやめるのです。これは馬の口に人参を入れるからです。

馬の口の前に人参をぶら下げるのではなく、口に入れてしまえば、もう走らなくなります。

 

 

それはともかく、逆に、目の前の世界に実在性が高いと思っていると、「どうせ自分なんか」という発想になりがちです。世界存在の臨場感が高すぎるのです。ここで言う世界とは目の前の物理的現実世界という意味です。そちらの臨場感が圧倒的になると、虚無感や虚しさや欠落感をエネルギーにするという意味が分からなくなるのです。

 

それに対して、目の前の現実なんて、一瞬あとには過去になってしまうものであり、むしろ儚いと理解していれば、これから来る未来のほうがむしろ臨場感が高いと分かります。

 

 

この2つの立場は相容れません。

 

この視点の問題や、存在の臨場感について意識しない限り、議論は平行線をたどります。

 

同じ質問者の方が、先ほどの質問に続けて別の質問をされていました。

 

(引用開始)

また、最近よく紹介されているセネカを読んでいて、自分の人生をちゃんと生きないとなと納得すると同時にこれって結局世の中変わってないのではという疑問をもつのですが、どうセネカに向き合えばいいのでしょうか?

(引用終了)

 

これも同様です。

 

 

結論を急ぐならば、我々現代人の常識の中には、進歩史観でなければいけないという前提があります。

進歩史観というのは、単に過去の人を現在の価値観で欠席裁判しているだけです。

(たしかにテクノロジーは進歩していますが、人の世界の価値基準はそれだけではありません)

 

僕らは何も知らずに生まれてきて、学びながら成長します。

それは古代メソポタミアでも、古代ギリシャでも、古代ローマでも、未来のインドでも同じです。

ですので、セネカは役に立つのです。

先輩方が同じ課題で苦しみ、僕らと同じように必死で生きて、そして先達として思想を残してくれています。

その変わらなさはむしろ救いだと僕には感じます。

どれほどテクノロジーが進化し、人間がサイボーグ化して、恐るべき未来がやってきても(AIに飼われる未来かもしれませんが)、それでもセネカは役に立つからです。

ですので、その視点から見たら未来は怖くないのです(そもそも論として、未来は恐るべきものです。それが分からないと、未来論自体が分からなくなります)。

 

 

「どうセネカと向き合えば良いですか」というご質問に対しては、楽しく向き合えば良いことだと思います。

世の中はその意味では変わらないのです。

なぜなら、人間は変わらないからです。

変わらないからこそ、我々はそこに安寧と救いがあります。

そうすれば、我々は出来レースを闘えるのです、セネカを読めば。

 

欠落とか、虚しさというのは、ある人々にとっては、巨大なマシュマロ・テストでしかないのです。自分をコントロールして、自分を変えれば(←ここ重要)、よりたくさんのマシュマロを頬張ることができるのです。そのことが分かっているので、猛烈に「一にも二にも勉強」なのです!

 

*「いますぐ、マシュマロを1つ食べてしまうか、15分待って2つもらうか?」

 

 

【書籍紹介】

 

 

 

*一言で要約するなら「立派に費やされた一生は長い」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 

 


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