イエスは笑ったことがありません。
むしろいつも怒ってばかりでした。
というか、呪いの言葉もよく吐きかけます。
時期ではなかったのに、呪われたイチジクはまだ良い方です。
c.f. イエスはなぜ「いちじくの木」を呪ったのか? 2010-08-28
生まれてこなければ良かったと言われた人もいます。
特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。(略)
その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう(マルコ14:18−21)
サタンよ引き下がれ、とサタン呼ばわりされたうっかり八兵衛もいます。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マタイ16:23)
c.f. リンゴとナツメヤシ 〜一つの麦、もし死なずば〜 2015-01-31
いつも怒ってばかりで、いつもイライラしていて、そしてしばしば絶望します。
わたしは悲しみのあまり死ぬほどである(マルコ14:34)
(死ぬ直前のエリ・エリ・レマ・サバクタニという絶叫もまた悲痛です)
c.f. バレリーナ(の卵)にとっての生きた解剖学とは? 2013-07-24
彼がおそらく心から喜んだのは2度だけです。
一度目は十字架の上で。
もう一度がこちらです。
おそらく本当に喜んだのは、こちらの一度だけではなかったかと思います。
あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない(ルカ7:9)
聖書を読んでいるとさらっと流してしまいそうな、ローマ百卒長のシーンです。
c.f. 友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれる 2014-12-01
c.f. どうやったらIQは上がりますか?「誰もが天才だ。 しかし、魚は...」 2013-07-31
少し長いですが、引用します!
その前に、余談を一つ。
イエスは笑ったことがありません。
聖書の中でイエスが笑っているシーンはありません。
というか、これは僕の私見ですが、いつも怒ってばかりですし、イライラしてばかりいます。
なんでこんな馬鹿ばっかりなんだと思いながら、一生懸命に対機説法しています。
たまにその怒りは親に向けて、漏れています。
さんざん探してようやく見つけた息子から、母親は「女よ」と呼ばれ、自分の父母は宴会場にいると言い放たれますし(カナの婚礼(ヨハネ2:4))、そもそも子供の自分に、エルサレムで迷子になったときも(親は気が気ではなかったと思いますが)、三日後に見つかったときに、僕がここにいるのは分かっているはずだと言い放ちます(ルカ2:49)
「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)
いやいや、厳密には本当はイエスは笑います。
それは、しかし失笑です。
いや、嘲笑に近いでしょう。
そのシーンがユダの福音書にあります。
これも幾度となく紹介していますが、本当にリアルです。
弟子たちが何かお祈りを捧げているところに、イエスがやってきます。
そして弟子たちの様子を見て、鼻で笑います。
バカどもがアホなことをしている、と。
これは決して、イエスが見下しているとかではなく、正直な感想なのでしょう。
ユダの福音書はめっちゃ短いですし必読です。
で、話をルカ書に戻します。
長くなりますが、引用します。
イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。
ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。(マタイ8章)
話はシンプルです。
自分の部下が死にかかっているローマの百卒長がいました。
イエスに助けを求めることにしました。
そのローマの百卒長は立派な人だという評判だったので、イエスは行くことにしました。
そしたらローマの百卒長から止められましたw
このシーンを見るといつも「森のくまさん」という歌を思い出します。
ある日、森の中でくまさんに出会います。
くまさんはお嬢さんにお逃げなさいと言う。しかし、その舌の根の乾かぬうちに追いかけてくるというあれです。
ローマの百卒長も、助けを求めながらも、イエスたちが移動しだすと、来てくれるなと言います。
ここらへんが非常に面白いです。
もちろんこれはツンデレとかではなく(誰も思っていないか)、理由があります。
そしてその理由に全イエスが感動したのです。
「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
そしてこれは非常に分かりにくい話です。
しかし、彼の中でのロジックは一貫しています。
自分(ローマ百卒長)にはイエスをお迎えするだけの資格がなく、だからこそ自分で迎えに上がる値打ちもないのです(ですので、ユダヤ人の長老たちを伝令に派遣しています)。
そして、「ただ、お言葉を下さい」と言います。
イエスとの関係で言えば、これだけで十分なのですが、聖書としてあまりに不親切だということで、丁寧に説明がなされます。
わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」
これはそのまま情報空間のプリンシプルについての簡潔な説明となっています。
ひとりの者に行けと言えば行き、他の者に「こい」と言えば来るのは、人間の世界の話だけではないのです。
情報空間がそのようなカタチであることを私(百卒長)は知っていて、そしてもちろんイエスさまもご存知でしょうから、わざわざミスダイレクションのために来ていただく必要はありません(実際にリアルに来て何事かをすることで治ったと思わせる必要はありません)、と百卒長は言っているのです。
権威とはレイヤーのことです。層のことです。抽象度の階層性ですね。
一つ上の抽象度からの働きかけのこととここでは理解します。
お互いが望むならば、移動が可能です(その狭き門を陰陽師では「鬼門」と呼ぶのではないかと「まといのば」では考えいます)。
その際に「お祈り」も「おまじない」も近くにいることも本質的には不要なのです。しかしながら、無いよりは、あったほうが臨場感が高まるのです。もちろん、このローマの百卒長にはそれらが不要であり、百卒長を信頼している僕にも不要なのです。ただ、お言葉だけで良いのです。
それに対して、「こいつ、めっちゃ分かっている!!!」とイエスは喜んだのです。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
信仰とは知識ということです。
こいつは分かっているし、知っている。
自分だけが知っているという孤独を味わい続けているイエスとしては、狂喜乱舞なのです(弟子にそのレベルに達する者が一人もいないのが残念です)。
ここでは「信じる者は救われるw」というようなことは一言も言っていないのです(聖書には「信じる者は救われる」とは書いていないと、大学の一番最初のキリスト教の授業で習った気がしますw近い言葉はたくさんありますが)。
信じるとか信じないとかではなく、知っているか否かの問題です。
最近、ハマっているマジシャン系Youtuberの方が、「誰にも言えないマジック界の秘密をおしえて」という大喜利で「おまじないは不必要」と言っていたのに、バカ受けしました。まったくその通りです。でも「おまじない」は、相手にとっては必要なのです。
イエスも同様に自分がわざわざ行くことも無いことは知っていたのです。しかし民衆に合わせて、わざわざ出向いていたのです。
そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。
わざわざ出向いていたにも関わらず、直前で足止めを食って、そして御託を聞かされたのに、これほどまで感動するのは、イエスがそれほどまでに仲間が欲しかったからなのでしょう。
ご自身の手帳にずいぶん前に書いていたけど、すっかり諦めていたことが唐突に叶ったのです。
「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」
その喜びに溢れたシーンです。
イスラエルの中でもとはまた巨大な範囲です。地域ではなく、歴史をも射程に入るので。
最後の一言は明らかな蛇足ですが、これもまた分からない読者のための過剰な解説です。
「使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。」
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