ヒーリングの手法として、共感を用いるのであれ、「思いやり(compassion)」を用いるのであれ、ヒーリングは猛烈に疲れます。
大周天や抽象度、もしくは共感によるバーンアウト(燃え尽き症候群)の話しを無邪気に誤解している人もいます。
「気は出せば、出すほど入ってくるんだよ。だから、ヒーリングをすると自分がもっと元気になるんだ!」と無邪気に言ってい人もいますが、それはもしかしたらきちんと気を出したことも、まともば仕事をしたことがないのかもしれません。
それはそれでむしろ幸いです。
最近、ヒーリングのセッションで疲れ切ったというフィードバックを多くいただきます。
「セッションを1人1時間やっただけなのに、ぐったり疲れました」などのフィードバックをいただきます。
彼らとしては、これまでもヒーリングをさんざんやってきて、プロとしても十分に活躍できているわけで、そして、スクールなどで何度もレベルアップして、明らかな成長をしているのに、なぜこんなに疲れるのか不思議でしょうがないわけです。
もしかしたら「共感」を用いすぎているのかもしれない、、、
もしくはホメオスタシス同調を用いすぎて、かぶりすぎているのかもしれない、、、
相手から呪われている?
脱洗脳に失敗した?
間違えて魔境に足を踏み入れた??
などと、疲れ切った身体に追い打ちをかけるように、疑念が次々と湧いてきます。
でも、もっとシンプルに考えて良いのです。
このようなフィードバックをもらった場合、僕はシンプルに「それは良いことです」と答えます。
実際にとても良いことだからです。
ヒーリングは疲れるのです。
復活のイエスはマリアに向かって「私に触れるな」と言いました。
一方で、12年間血の止まらない女性がイエスに触れただけで治癒しました。
そのときイエスはこう言いました。
「わたしにさわったのは、だれか」
これは別に非難しているわけでも、触れるなということでも無く、単なる質問です。
でも、そのときイエスは群衆に取り囲まれていました。
満員電車の中で、「俺に触っているのは誰だ!」と言うようなもので、たくさんの人と触れ合っています。
うっかり八兵衛のペテロは賢明(?)にもこう言います。「いやいや、イエス先生、あなたのまわりを群衆が取り囲んでいるんだから、みんなが触れていますよ、、、(バカなの?死ぬの?)」と。
それに対して、イエスとしては珍しくペテロに解説します。
「いやいや、そのなんというか物理的な接触ではなく、、、、誰かが私の魂というか、情報というか、まあ、そういうものに触って、ヒーリングを求めたんだよ」。
そして「だからこそ、力が私から出て行ったのがわかったんだ」、と。
(そんなシーンなど無かった!という聖書愛好家のために該当箇所を引用しておきます)
(引用開始)
イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。
人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。
しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。(引用終了)(ルカ8:46-47)
*ちなみに鬼畜なイエスくんは恋人のマリアちゃんに対しては「触るなよ」とひどいことを言います。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない」(ヨハネ20:17)
* アントニオ・ダ・コレッジョ『ノリ・メ・タンゲレ』 (1495年)
ちなみに、Noli me tangere(ノリ・メ・タンゲレ)はラテン語でTouch me not(私に触れるな)
気をつけたいのは、これは気の枯渇で疲れるという次元の話しではないということです。
物事はどの抽象度で見るかによって、全然変わってきます。
僕も「気は出せば出すほど入ってくる」とか「秘伝功だから疲れない」と言いますが、それはそれです。気は出せば出すほど入ってくるのは事実ですし、それが構造的に「情けは人の為ならず」の本来の意味と同じく、自分により多く戻ってくるのも事実です。
秘伝功だから疲れないのも事実ですが、それは自分の後天の気をガンガン使うタイプのヒーリングに比べての話です。比較の問題です。
ヒーリングや気功というのはいつも実践者の味方です。
(大事なことなので繰り返しますが、ヒーリングや気功は実践者の味方です。実践しないで、本ばかりを読んでも、ブログを読んで、それを丁寧に引き写して仕事しても、実にはなりません)
自分の気を使ってヒーリングをしていた人は幸いです。
秘伝の気を使うと、無限のエネルギーにアクセスできた気がします(実際にそれはほぼ無限のエネルギーです)。疲れは半減どころか、大幅に無くなります。
また、ホメオスタシス同調でヒーリングをしていた人は幸いです。
同調の回路をロジックの回路に変えるだけで、ヒーリングのパワーも精度も上がり、その上被りが防げます(「被り」とは相手の症状をもらってしまうことです。気功やヒーリングの世界の用語です)。
共感でヒーリングをしていた人は幸いです。
共感でのヒーリングをわずかでも「思いやり」側に切り替えることで、よりクライアントさんに喜ばれるようになり、そして自分の燃え尽きの可能性も減ります。
ちなみに最初から完璧を目指すのは、ピアノを習い始めてすぐにショパンコンクールを目指すようなものです。傲慢というよりはアホです。
ヒーリングは気功やいつも実践者の味方なのです。
実践をしていて、疑問や悩みがある人にとっては知識は力です。長年、悩んでいたことがあっさりと解けたり、セミナーの一言で氷解したり、スクールのワークで謎が解けたりします。それはきわめて強烈で強力な体験です。
言われてみれば当たり前のことなのですが、その知識が血肉化しているので、本人にとっては圧倒的な力になるのです。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。(ヨハネ1:14)
しかし「読めば分かる」と考えている人にとっては、その文字たちは呪いとなります(読めば分かるのが問題なのではなく、読むだけで実践を伴わないことが問題です)。
そういう人たちは、映画「マトリックス」の言葉を借りれば「信じたいものを信じている」だけなのです。ヘーゲルの言葉を借りれば「どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在しない」世界なのです。
なんらかの哲学がその現在の世界を超え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在しない。(ヘーゲル『法の哲学』)
余談ながら、このあとに続くのがあの有名な、
ここがローズだ、ここで踊れ
です。
もちろんこれはイソップ物語からの引用であるところの
Hic Rhodus, hic saltus.
(ここがロードスだ、ここで跳べ)
をもじった洒落です。
シャレ?
どう「洒落(しゃれ)」なのかと言えば、世界の名著の注によれば、
ギリシャ語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)に、ラテン語のsaltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「少し変え」たしゃれ。
だそうです。
ギリシャ語とラテン語がわかっていれば、ニヤリと笑えるシャレなんですねーーーー(遠い目)
(ここらへんは是非寺子屋「ヘーゲル」講座で学んでください!)
まあ、それはともかく、このイソップ物語からの引用をかつてヘーゲリアンであったとあるユダヤ人は引用する形で貨幣、そして商品の問題について語りました。
モノは商品になるときに命がけの跳躍をする、と。
そのマルクスの問題意識をこんな風にイーグルトンが批判しています。
なにかと言えば、かつてマルクスはこんなことで悩んだそうです。それは古代ギリシアの芸術がずいぶんと過去なのにも関わらずなぜ「永遠の魅力」を保持しているのかということです。
それに対して、イーグルトンは噛みつきます。
その噛みつき方はヘーゲルそのものです。
なんらかの哲学がその現在の世界を超え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。(ヘーゲル『法の哲学』)
こんな風にイーグルトンは書いています。
かつてカール・マルクスが悩んだ問題は、古代ギリシアの芸術が、それを生んだ社会が過去のものになってすでに久しいのに、なぜ「永遠の魅力」を保持しているかということだった。しかし私たちがいまこだわりたいのは、この世界の歴史がまだ終わってもいないのに、それが「永遠の魅力」を持つとどうして言い切れるかということだ。
僕らは自分の好きなものにすぐに永遠を見たりします。
衝動的な恋愛の結末で思わず「永遠の愛を誓ったり」します。
しかしカラクリはシンプルです。
一瞬は永遠なのです(By Queen)
その瞬間は永遠なのですが、そのような瞬間は無数に存在するのですw
(イーグルトンについても、寺子屋「文学」講座にて!!)
話を戻します。
というか、わかりにくい文章なので、わかりやすくまとめます(わかりやすさは諸刃の剣で、呪いとして機能します。実践しない者にとってはw)
第一に、ヒーリングや気功は実践者の味方であるということです。
それが派手でなくても、地道に楽しんで続けている人は、黙々と歩く亀のように、脚の早い移り気な懐中時計を持ったウサギを追い越していきます。
(ちなみに、初心者ほど派手な結果を出しやすいのです。これはきっと神様が気功というゲームに没入させるための仕掛けなのでしょう)
第二に、たしかに自分の気を使うより、秘伝功の方が圧倒的に疲れにくく、共感やホメオスタシス同調よりも、共苦や論理を用いる方が疲れにくくなります。少なくとも気の枯渇による体調不良や死亡は避けられます。
しかし、第三に、プロが本気でヒーリングをしたら、ぐったり疲れるのです。
数分の何気ないヒーリングでも同様です。
でも僕らは職業として、ヒーラーをやっているので、それを見せないだけです。それは単なる職業倫理です。でも見せないことと、そうではないことは別です。
僕はゲーテの言い方が好きです。
俺が言うシャレの一つにだって、財布いっぱいの金貨がかかっているのだ、とゲーテは言います。
実際にそうです。
僕もゲーテをもじって言う気はありませんが(恐れ多くて)、しかし自分が出す気や自分が出すアドバイスの一つ、自分の思考には、財布いっぱいの金貨がかかっているという自負はあります。また命がけの経験もあった、と。
(引用開始)
それに経験を積むとなると、先立つものは金だよ。私がとばす洒落の一つ一つにも、財布一ぱいの金貨がかかっているのだ。今自分の知っていることを学ぶために、五十万の私の財産が消えていったよ。父の全財産だけでなく、私の俸給も、五十年余にわたる相当な額の文筆収入も、そうだ。(引用終了)(エッカーマン『ゲーテとの対話』)
「経験を積むとなると、先立つものは金だよ」とはっきり言ってくれる先輩の存在はありがたいものです。
ですので、ちょっとヒーリングをしただけで疲れ切ってしまい、ぐったりと落ち込んでいる人は幸いです。
1人のセッションをちょっとやっただけで、それもそんなに難しい内容でもなかったのに、ぐったり疲れてしまい、口も聞けぬほで、家に帰ることすらできなかったとしたら、それは福音です。
良いことです。
ようやくプロのヒーラーとしての階段をのぼりはじめたということです。
(大人の階段でもあります、たぶん)
毎回のセッションを全身全霊をこめてやりましょう。そしてぐったり疲れましょう。そしてまた翌日がんばりましょう!!
【書籍紹介】
メンターのメンバーがかなり読み進めたとのことだったので、再び紹介します!
以前は何度も何度も紹介していたのですが、最近は紹介していませんでした。
「まといのば」の基礎教養のための教科書と言っても良いくらいの名著です。
科学や心理学について概観できます。
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必読書です!!!
できれば小学生のときに読んでおきたい!
高校生のころに読んだら絶望するかも。
それ以上だったら、、、。
若い人は、何でもみな一日で事が成ると思っている(ゲーテ)
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