ジョン・クランコの傑作バレエ「オネーギン」は世界中のバレエダンサーがどうしても踊りたいと願う作品の1つです。
オペラ座バレエ団の往年の大エトワールであり、神様と称されたマニュエル・ルグリもその一人です。長年、踊ることを望んできて、はじめて念願が叶ったのが、オペラ座引退の数年前でした。
そしてパリオペラ座の引退公演の演目に選んだのもオネーギンでした。
プーシキンの小説を原作としており、オペラも存在します。ちなみに、そのオペラの楽曲を一切使わず、チャイコフスキーを使ったのもこのバレエの特長です。その音楽がまた素晴らしいものです。この経緯も非常に面白くて、オペラの楽曲を使うことを劇場側に拒絶されたがゆえにチャイコフスキーから探したゆえの幸運です。
胸をかきむしりたくなるような物語バレエです。
プーシキンの原作小説の「エフゲニー・オネーギン」の中に、ヒロインのタチヤーナが公爵夫人となり、そして人生を振り返って、こう嘆きます。
幸せになることができた、手を伸ばせば届くほど、あんなに近くにあったのに…
オペラやバレエを観て感動したあとに、味わいたいセリフですね。
本当に、幸せは「手を伸ばせば届く」場所にあります。
その感触をクリプキは
可能世界wにおいて♢Aが真とは、wから到達可能な可能世界のうちのどれかにおいてAが真ということ
と言いました(そうなのか?w)
*クリプキ様
ヒーラーから見ると、あと少し手を伸ばせば、成功にも幸福にも届く場所にあるのにと思うことは良くあります(僕が無茶を言っているように思っている人が多いようなのですが、実際には「手を伸ばせば届く」ところのことしかアドバイスしていないつもりです)。
「なぜそんな風に先のことが見えるのか?」と不思議に思う人が多いようですが、これもカラクリがあります。
ヒーラーの視点というのは(気功師としても、ゴール設定を助ける者としても)一つ上の抽象度であるということもあるのですが、一方で岡目八目ゆえの風通しの良さもあります。
もう少し深掘りするならば、ヒーラーには自我というスコトーマが無いということです。ヒーラー自身の自我ではなく、クライアントの目をくらませるクライアントの自我がないということです。
簡単に言うならば、自分にとってはゴールの選択や設定は大事(おおごと)ですが、ヒーラーであっても、他人にとっては他人事です。
他人事ゆえにフラットに見ることができるのです。自我というスコトーマがあると大事なものが視えなくなります。自我を捨てることはできませんが、一瞬だけでも自我を消去すると、目の前に広がるゴールの世界が視えてきます。それが止観であり、自我を止めて情報空間を観ます。
これは一瞬で良いので、日々習慣にすると、脳もリセットされ、身体もリセットされ、瞑想のエッセンスを一瞬で得ることができるということです。
それを偉大な法華経の導師はこう言いました。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ(宮沢賢治『雨ニモマケズ』)
自分を勘定に入れないということです。
ずっと続けられれば聖人ですが、社会生活をおくれなくなります。ですので、一瞬でOKなのです。
そして、我々がバレエを観て、オペラを観て、演劇を観て、ドラマを観るのは、この視点を手に入れるためです。深く感情移入しながらも、それを俯瞰して観る体験を繰り返すと、自分にとって良いときも、悪いときも、塞翁が馬と見做せるのです(余談ながら、『サバイバー宿命の大統領』の中で、「人間万事塞翁が馬」が引かれていました。
良いことが起きて、周囲の人が「良いことが起きましたね」と言われても、翁はMaybeと答え、
悪いことが起きて、周りの人から指摘されても、Maybeと答える、と。
これは良いことにも悪いことにも不感症になるということではなく、深く味わいながらも、高い抽象度で「Maybe」とつぶやくことです。たしかに、良いのかもしれないし、悪いことかもしれないし、究極的には、良いも悪いも無いのだ、と。
「幸せになることができた」と人生の最後で嘆くのもまた悲劇でもあり、そうでもないのです。
しかし、永遠の距離があると思って諦めたことも、隣のヒーラーから見たら「手を伸ばせば届くほど、近くにある」のかもしれません。
【動画紹介】
オネーギンと同じく物語バレエの傑作であるジゼル公演を控えている井脇幸江さんが山手線の広告に!(ほかに東京メトロ全線、東急東横線、東急田園都市線、東急大井町線にも!)
【ドラマ紹介】
『サバイバー:宿命の大統領』も面白いのですが、House of Cardsもすごいです!
ファイナル・シーズン配信開始です!!
僕がいまハマっているのは、リミットレス。
*Netflixで字幕で是非!