T,Nil,D(B)のワークが目指しているのは、ラベリングです。
目の前の世界を対象化することがポイントです。
ゴールの世界から見て、いま目の前の事象がゴールと関係しているか否かで世界をラベリングしていきます。
ここでのポイントはラベリングしたことの成否ではなく、ラベリングしたという行動そのものです。
ラベリングしたということは、ゴールの世界から現実世界を評価して、腑分けしたということだからです。
これがARなどの気功技術の肝となる理論であり、ワークです。
ですから、瞬間瞬間にT,Nilのラベリングをしていきます。
少しでも悩んだり、考えてしまったらDとラベリングします。
稀にトラウマが刺激されるのか、イライラしたり、情動が強く発火してしまい、止まらないときがあります。そのときはそれを煩悩(ぼんのう)のBとラベリングします。
カチャカチャとラベリングしていくときに、それはゴールに対する効率性を高めることがポイントではないのです。ちなみにゴールから遠ざかるような事象でも、ゴールに関係している以上はT(True)となります。T,Nilとは真偽値です。それもLispでの表記法です。
これはゴールの世界に対するRゆらぎとして機能します。
いつもゴールと現実世界を照らし合わせているのですから、当然ゴールはゆらぎます。
そしてあるとき、唐突にすべてがTであることに気付きます。
これも理論的には当然で、ゴールの世界の写像として現実世界がある以上はすべてはTなのです。
スコトーマの原理からも明らかで、自分の関心が向いてしまうということは、それはゴールに関係するからです(前述したように、ゴールを阻害する要因もまた関係はしています)。
このことを体験して深く納得すると、トム・クルーズの映画監督が、映画製作の最大の危機にあっても、
Every steps counts
(どんな歩みにも意味がある)
自分の最大の敵は自分自身〜どんな歩みにも意味がある(ミッション・インポッシブル/フォールアウト) 2018-08-17
と言える意味が分かります。
膨大な資金と人材とエネルギーが投下された映画を破壊しかねないようなアクシデントもTとなるのです(そしてそのマインドセットが実際にゴールの世界へ移動させるのです)。
一方で我々の世界のシャーマンならぬ歌姫が
やさしさに包まれたなら きっと目に写る全てのことはメッセージ(荒井由実)
と歌う意味も分かってきます。
目に写るすべてのことは、ゴールの世界からの明確なメッセージなのです。
我々はそれを粗雑に扱い、くだらない情報のお尻を追いかけています。
ただ今回の主題はこのことについてではありません。
神さまのことです。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても奇蹟はおこるよ
これは美しい歌詞ですし、まさにこのとおりだと思います。
*祝フルハウス復活!!いつまでも若いジェシーおじさん、ユーミンのロゴス!! 2016-03-06
(このユーミンの歌を見つけてくれたのはスクール修了生でした!)
神様っているの???
という疑問はそのとおりです。
なぜ狂人は昼間に行灯をつけて、神を探し、そして神の死を宣告したのでしょうか?
(引用開始)
狂気の人間。ーー諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、ーー白昼に提灯をつけながら、市場へ駆けて来て、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。
(中略)
狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちにいってやる! おれたちが神を殺したのだーーお前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ!(フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」125)(引用終了)
いやいや、その二千年も前に、ユダヤの青年は磔(はりつけ)にあいながらも、
わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。
となぜ叫んだのでしょう?
(引用開始)
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイ27:46(引用終了)
ここには抽象度の階層性があると思います。
神も生まれ変わるのです。
人が変わると神も変わるのです。
(その意味ではかつての不滅の神はもはや存在しないのです)
そのことに気づかずにいると、神がいた場所に何度も戻っては神を呼び求め、その声が虚空をこだまし、そしてそれがあまりに繰り返されると絶望します。
それがカルカッタの修道女の嘆きでしょう。
*わたくしの内に神は存在されません。
(引用開始)
わたくしの魂の中で神の場は白紙です。わたくしの内に神は存在されません。神を欲する痛みが非常に強いので、わたくしはただただ神を求めるのですが、わたくしが感じるのは、神がわたくしを望まれないことです。神は不在です。天国、人びとの魂、それらは単なる言葉であって、わたくしには何の意味もありません。(引用終了)(p.344マザー・テレサ『来て、わたしの光になりなさい』)
*♪この支配からの卒業、闘いからの卒業♪憑依と沈黙とスノーデン「神は不在です。神は私を望まれない」 2017-02-24
引用はこちらですが、言及はこのころから。本稿のテーマもこのころから変わりませんねΣ(・∀・;)
若い頃に出会った神にはもう出会えないのです。
なぜならその座には、もういないからです。
では、神はいないのかと言えば、そうではなく、その上の階層にいるのです。
お引っ越しをされただけなのです。
迷子なのではなくw
「迷子のお呼び出しを申し上げます。天界からお越しの神さま、いらっしゃいましたら〜」 2015-04-10
それを鮮やかに描いたのがイスラエル・リガルディーでしょう。
リガルディは、魔術師の内的進化が進むと、魔術師はこれまでのものより上位の次元の「神」に祈ると言います。そしてこのステージアップが幾度となく繰り返されるのです。
ある面をクリアしたら、次のステージへの鍵がもらえるのです。
そこで神もまた進化するのです。もしくは上位の神が待っているのです。
その意味でこれは絶対的な一神教の神ではなく、もっと融通無碍なというか、実体に即したものであります。
(引用開始)
「生命の樹」を道標(みちしるべ)として利用しながら、「神」のより大きくより広汎囲な生命へと自分の生命を加え、また自分の存在を従属させることを望んで、別の体系で名づけられた「神々」もしくは「大天使」へと魔術師は祈るのである。そうすることによって、霊的知覚力はさらにはっきりと鋭くなり、意識は流れこむ聖なる力の高圧にも慣れて行くのだ。魔術師の内的進化が進むにつれ、魔術師はセフィラ即ちこれまでのものより一つ上位の次元の「神」に祈る。これまでと同じ過程に従って魔術師は自分の祈る神へと自分の本質、自分の統一した意識を合一しようとする。この後も同様に行う。(p.233イスラエル・リガルディ『柘榴の園』)
*道標とする「生命の樹(セフィロト)」とは旧約聖書の創世記にあるエデンの園の中央にある樹のことです。知恵の樹と共にあり、それを食べたものは永遠の命が得られます。
では、その究極的な姿とは何でしょう。
まあ、もちろん究極などは知るべくもないですが、ある程度上位次元に行くとこんな風になるというのは推測ができます。
それが老子の描く「天地」です。
寺子屋「漢文」を受講された人はおなじみかと思いますが、、、
天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく:お祭りのおもちゃの犬)と為す(老子第5章)
です。
天地は仁などではありえず、森羅万象すべてのものをお祭りの藁の犬のように扱うという言葉です。
これはかなり真理を突いていると思います。芻狗となすのだからこそ、我々も自分を芻狗と見做せば良いのです。
お祭りという役割があるときは、藁の犬として輝き、お祭りが終われば捨て去られればいいのです。
ある程度、抽象度が上がると、役割というのは自分が決めるというよりは、宇宙なり運命なり他者が決めることが見えてきます。
役割が渡されたら、それを果たせば良いのです。
最もセクシーな女性と呼ばれたペネロペ・クルスがインタビューに答えてこう言っています。
ざっくり言えば、自分は自分ことをセクシーだと思ったことはない。寝不足気味な母親であり、子供のもとに帰りたいと思っている。でも、役割を与えられたら、それを演じるだけ。
お気に入りのシェイクスピアの一節を口にしながら、と。
そう言って、シェイクスピアの一節を引きます。
Assume a virtue, if you have it not.
(もっていないならば、せめてあるふりを)
「持っていないならば、せめてあるふりを」世界一セクシーな女性のお気に入りの言葉 2014-11-05
(引用開始)
She doesn’t feel like the sexiest woman alive, she says—she feels like a mother who doesn’t get enough sleep; Bardem is filming in South Africa, and she is anxious to return to her children—but given the role, she will play it. “Assume a virtue, if you have it not,” Cruz says, quoting Hamlet. It is one of her favorite lines.
(私は自分を最もセクシーな女性だと思っていません。寝不足気味な母です。旦那は南アフリカに撮影に行っており、私は子供のもとに戻りたいと強く願っています。しかし、与えられた役があるなら、それを演じるだけです。お気に入りのハムレットのセリフをつぶやきながら
「持っていないならば、せめてあるふりを」)(引用終了)
このときの諦観というか、風景こそが、「天地は仁ならず」ではないかと言ったら、言い過ぎでしょうか?
ゴール設定を無邪気に信じられた時代は幸せで、ゴール設定と達成がどんどんうまくいくようになると、そのうちに「現実が夢を追い越す」のです。そこからが人生は勝負です。
もちろんゴール設定が無効になるわけではありません。ますます重要性が増します(そうでないと、命を犠牲に捧げることになりますし)。
ただし、そのときの感覚は「given the role, she will play it.」(役割を与えられるならば、それを演じるだけ)となります。
そこにエゴなどは介在しないのです。だからこそ、芻狗なのですから。
そのときに観る「神」と子供の頃にいた「神」では自ずと相貌は変わって当然です。
抽象度の階段を上がるとは、大人の階段をのぼることですw
*♫大人の階段昇る
君はまだシンデレラさ
しあわせは誰かがきっと
運んでくれると信じてるね
少女だったといつの日か
想う時がくるのさ♫
と、アニメ「みゆき」の主題歌をオチにして終わろうと思ったのですが、、、(分かってくれる人はわずかでしょうが、、、、)。
蛇足ながら、この歌詞もまた「しあわせは誰かがきっと運んでくれると信じている」少女に対する批判です。
「小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれた 」(ユーミン)と対応しています。
でも、大人は夢を自分で叶えるものですし、しあわせは自分で運んでくるものです。
そして気づいたら、芻狗(すうく)となり、与えられた役割を淡々と果たす自分に気付くのです。
そしてそんな大人になったときに一周回って、泣きわめくだけで、望むものを手にする赤ん坊を見て愛おしくなるのです(大人になっても、そこから成長しない人には痛ましくなりますw)
これらをイエスはシンプルにまとめてこう言います。
叩けよさらば開かれん
と。
そして、サマリア人のたとえのラストで、「行って、そのようになせ(Then do the same thing.)」と言います。
頭だけで考えて、頭でっかちに考える律法学者に対して、Do the same thingと言います。
自分の神様を探しましょう!!
いやいや自分の真のゴールを探しましょう!