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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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【募集開始】集められた魂は目覚める 霊(アートマン)の知識の中に それは無知の者には暗夜である。

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目の不自由な人びとが、象に触るという話があります(先日のブログでも紹介しました)。

そしてめいめいが好き勝手なことを言いますw

 

「群盲象を評す」などとも言いますが、これは様々なメタファーとして、様々な宗教指導者が使ってきました。非常に使いやすいメタファーなのだと思います。

 

目が見えない人は自分が触ったところだけで、その全体像を推測しようとします。

ある人は足を、ある人は腹を、ある人は鼻を触り、全体像を評します。

 

 

仏教では盲目であることを真理に対して盲目であるとという無明のメタファーとして考えます。

一方でジャイナ教などでは、真理は様々な形を取りうるという相対主義の表明として用います。

どれも違っているが、どれも正しいという立場です。

 

 

ざっくり言えば、ジャイナ教やラーマクリシュナは「その見方は全員違っているが、全員正解」と言います。「すべては真理の一側面である」と。すなわち「みんなちがって、みんなよい」の相対主義です。

 

一方で仏教では盲人とは無明であり、真理に対して目を閉ざしていると考えます。善悪というとちょっとニュアンスが違いますが、真理を知るものと知らないものの二元論です。もちろんこの二元論は絶対的なものではありませんし、乗り越えられない壁ではありません(キリスト教における予定説であれば、予め決まっているので乗り越えられません。はかない人間としては、自分が救済される側だと信じて、信仰するしかないという無理ゲーを強制されます)。

 

僕が好きなのはルーミーです。

 

スクールでもセミナーでも幾度となく紹介しているイスラム神秘主義詩人のルーミーです。

 

 

ルーミーは盲人が象をなでるのではなく、真っ暗な部屋に象が連れてこられると言います(ヒンズー教徒が連れてきます)。

暗闇の中では誰もが目を使うことができません。その意味で盲人と同じです。

 

この一工夫は非常に本質的だと思います。

 

目が見えないのではなく、目は見えるのだが、部屋が暗くて見えないとするのが見事な工夫です。

 

同じように感じますが、全然違います。

 

すなわち、もともと観る能力はあるのに、部屋が暗くて見えないだけなのです。真理をつかむ能力は等しくあるのに、それを活用できていないという含意があります。

 

良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである(ルネ・デカルト『方法序説』冒頭)

 

*デカルトも理性の光と表現します。ポイントは光です!(信仰の光ではなく自然の、理性の光です)信仰の光だと下のアウグスティヌスのようになります。Veritusとは真理です。真理の光に照らされています。

 

*アウグスティヌス

 

 

そしてこれは言うまでもないでしょうが、ソクラテスの立場です。

瞑想スクールでも紹介したソクラテスの立場です。

 

ソクラテスはなぜ真理が見えないのかについて明解にこう答えています。

暗闇の中にずっといてそこに目が慣れてしまったものが、暗闇から明るい昼間の太陽を見たら、ギラギラしすぎて何も見えない、と。

 

そして太陽の光のもとまでやってくると、目はぎらぎらした輝きでいっぱいになって、いまや真実であると語られるものを何ひとつとして、見ることができないのではなかろうか?(プラトン「国家」)

 

*アテナイの学堂。ラファエロの傑作ですね。中央にプラトンとアリストテレスの2人がいます。

イデアは天にあると指差すのがダ・ヴィンチ扮するプラトン。物理的な現実世界の事象の中にイデアがありとして手のひらを地面に指すのがアリストテレス。

 

 

映画館から外に出たときにまだ真っ昼間だったりすると、一瞬あまりの明るさに目を閉じてしまいます。夜通し飲み明かして、外に出たらもう朝だったら、一瞬あまりの明るさに目を閉じてしまいます。

映画館や一晩ならまだしもそれが何日も何ヶ月も何年もであれば、目はなかなか慣れません。もう瞳孔をコントロールすることすら脳が忘れているからです。

 

でも、観ることができないのではありません。まぶしいだけなのです。

これがソクラテスの立場であり、ルーミーの立場です。

 

ソクラテスはそれに対して明解に処方箋を出します。

まぶしくて観ることのできない真理を観る方法です。

真理と言うと語弊があるのであれば、高い抽象度を観る方法です。

 

我々にとって曖昧で捉えようのない気がする高い抽象度の情報をいかに観るか。

高い抽象度の情報が単に難解であるだけならば(少なくとも難解であることまでは分かっているので)、丁寧に論理を追っていけば良いことです。しかし、雲をつかむような抽象度というのはあります。

その高い抽象度の情報を可視化するには、どうすれば良いとソクラテスは言っているでしょう。

 

これまたシンプルです。

 

慣れ

 

です。

 

単純に慣れることだと言っています。

明るい戸外にずっといれば目が慣れてくる、と。

 

洞窟から出た最初のうちは、星明かりや月明かりで慣らして、だんだんと慣れるに従って、周囲を明るくしていけば良いということです。

 

我々も同じです。だんだんと高い抽象度に慣れていけばいいのです。

 

 

 

ちなみに抽象度が高いと良さそうですが、弊害がありますw

 

抽象度が高いと、抽象度が低い世界がよく見えなくなるのです。目が霞むのです。

 

 

これもソクラテスはシンプルに原理を解説しています。

 

日の光に慣れてしまったら、洞窟に戻ったときに暗すぎて何も見えないだろう、と。

ですから自分がかつていたホームである洞窟に戻ると、あまりに何も見えずに驚きます。真っ暗だから当然です。そして自分は日の光に目が慣れている以上は最初はそこは漆黒の闇です。しかし、洞窟に住む人は何の不便も感じていません。彼らは見えているのです。そしてあなたを馬鹿にします。「ちょっと抽象度高いところにいたせいで、盲目になった」、と。

 

よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものであるルカ4:24

 

これが副作用です。

 

日の光に対して目が開かれると、洞窟の中に対して目が閉じるのです。

というか瞳孔の問題ですね。

 

すなわち、瞑想に長けてくると、いろいろな弊害が起こります。

よく言えば「俗世から離れる」と言えますし、悪く言えば「現実が見えなくなってきます」。

現実が見えないとは何とも感じが悪いですが、物理的現実世界の重要性が落ちてくるので、現実を観る視力が落ちてくるイメージです。

 

単純化して言えば、瞑想によって情報空間の臨場感が上がれば上がるほど、物理的現実世界もしくは物理空間が見えにくくなってくるのです。

奇妙な反比例関係があります。

 

いやいや瞑想スクールの受講生からすれば、こんな反論があるかもしれません。

 

「いや、自分は瞑想後にむしろ世界がクリアに見えた。世界がはっきりと色づいて見えました」とおっしゃるでしょう。それは事実ですし、重要な体感です。しかし、それは決して物理的現実世界がクリアに見えたのではなく、実は情報空間を観ているのです(この点は重要なので、また稿を改めます!)。

 

このパラドックスのカラクリを見事に説明したのはソクラテスです(ソクラテスの口を借りたプラトンとも言えます)。

 

それを詩的に表現したのが、バガヴァッド・ギーターです。

無知な者には日光であるものが、見者にとっては暗黒なのです。

洞窟の比喩そのものです。洞窟の中の住人にとって、洞窟の中は明るく、外の世界は闇なのです。

日の光に慣れたものにとって、洞窟の中は文字通り暗黒です。

 

集められた魂は目覚める

霊(アートマン)の知識の中に

それは無知の者には暗夜である。

無知の者は自らの感覚的な生命の中に目覚める

それを彼らは日光だと思う。

だが見者にとってそれは暗黒である。(バガヴァッド・ギーター2章69節)

 

*クリシュナとアルジュナ。

*バガヴァッド・ギーターとは、一言で言えば、「立って戦え(Stand up & Fight)」という物語です。あらすじは身も蓋もないのですが、その枝葉末節が豊穣なのです。

 

 

瞑想の本質をしっかりと掴み、そしてソクラテスによって理論を丁寧に説明されると、このギーターの一節が明瞭に理解できます。

なぞなぞのような詩がリアルに立ち上がってくるのです。

 

ルーミーにおいては、もっと謎解きが深くなります。

しかし丁寧に読むならば、味わい深く、そして意義深いのがわかります。

 

きみが神の友ならば、炎は水である。

何百枚という蛾の羽を欲したまえ、

それらを、一晩に一組ずつ、燃やしてしまえるように。

蛾は光に向い、炎の中へと飛び込む、

きみも炎を目指して、光に向いたまえ。

 

炎は、神が世界を焼きつくすためにあり、

水は世界を守るためにある。

 

いつのまにか、それら二つは互いに相手の姿を与えられた。

きみが持つ目には。

水の姿を持つものは燃え、炎の姿を持つものの

内部は大いなる救いである。(ルーミー「疑問」)

 

 

「いつのまにか、それら二つは互いに相手の姿を与えられた。きみが持つ目には。」とは、これはソクラテスの解説を待たねば、理解できない言説です。しかし、ソクラテスの洞窟の比喩によって明瞭となります。

 

またルーミーにかこつけて皮肉を言うならば、多くの人がやろうとしているゴール設定というのは、「光に向い、炎の中へと飛び込む」という自殺行為です。

そして成功者たちは自殺行為のようで「炎を目指して、光に向いたまえ」をしているのです。

ここが皮肉な現象です。

 

瞑想も同じです。瞑想の光を求めて、炎に飛び込む人が多いのです。

魔境に至らずとも、回り道をしてしまったという体験はあるかもしれません。

正しく学び、正しく本質をつかみましょう!
(ということで瞑想スクールはまた来年開講しますw)

(あ、そして、瞑想で深く入った情報空間でもっとも奥深く中心になる場所への至り方が5月の「内なる覚醒」スクールです。意外なところにある隠し扉の開け方です。ますますハードですが、ますます楽しいです!!)。

 

 

【『内なる覚醒』スクール 〜肉体の牢獄からの解放、エロスとタナトスのローズガーデン〜】
【日時】 5月19日()13:00~18:00 

     5月20日()13:00~18:00
【場所】 まといのばセミナールーム(四ツ谷)
【受講料】  230,000円(PayPal決済可能です。請求先アドレスを記載してください。またPaypalでの10万円以上の決済はPayPalでの本人確認が必要です)
【受講資格】 「まといのば」セミナー受講生(もしくはそれに準ずる方、他で「まといのば」の主宰のセミナーを受けている方もOKです)
【持ち物】 筆記用具と動きやすい格好
【お申し込み】お申し込みはこちらから。

 

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5月19日、20日(土・日)内なる覚醒スクール〜肉体の牢獄からの解放、エロスとタナトスのローズガーデン〜(受講料23万円、13時〜18時)

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6月23日、24日(土・日)リニューアル気功基本12セット、リニューアルヒーラー養成スクール1期(受講料23万円、13時〜18時)

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