ジャイナ教にこんな話があります。
6人の盲人が象を触ります。
同じ象を触っているはずなのに6人は全く違うものを触っているかのように感じます。
ひとりは足に触れて「柱のようだ」と言い、尾を触った者は「綱のようだ」と言い、鼻を触った者は「木の枝のようです」、耳を触れば「扇のよう」、腹を触ったものは「壁のよう」と言い、牙を触った者は「パイプのよう」と各自が自由に感想を言い募ります。
同じものに触れているはずなのに、柱、綱、木の枝、扇、壁、パイプとまるでバラバラです。同じものに触れているとは思えないほどです。
ちなみにそれに対して、仏教であれば、全員違うと言うのですが(e.g. 華厳経)、相対主義のジャイナ教らしく、これは等しく全員正解だと言います。
みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ)
のです
誰もが正解であり、同じものを別々の視点(位置)から触れているので、全く違うものを記述しているように感じるのです。
*ジャイナ教ではなく、仏教絵画です。
瞑想も似ています。
瞑想には全く違うアプローチがあり、それぞれのアプローチを比較すると全く違うものに感じます(まあ、そもそも象にすら触れていないことも多いのですが、、、)。
しかし象自体をきちんと見つめることができれば、、、、目からウロコが落ち(聖書)、盲人の目が開き、象自体を直接に観ることができれば、どれもが正しく、どれもが間違っているのが分かってきます。
我々は象自体に観て触れて、象の全体像をひとつかみにしたいのです。
象が瞑想の本質だとしたら、それぞれのテクニックは枝葉末節です。
そして枝葉末節にあまりにこだわり、そして教条的になりすぎると、せっかく耳を触っているのに、足を触っている集団に批判されたりします。そのうちに自分が触っているものに自信を失います。
重要なのは瞑想の本質にサクッと行き着くことです。
そしてそこから派生する様々な技を観ることです。
そしてその技からまた本質(象そのもの)にたどり着けば、いろいろなことがはっきりしてきます。
これまでぼんやりと学んできた、チャクラやクンダリーニや丹田や大周天や遮那瞑想などがくっきりしてきます。何よりも情報空間がくっきりと立ち上がってきます。
ちなみに、情報空間を複素平面に喩えるのは悪い表現ではありません。
しかし、虚数は歴史的な経緯はともかくもはや虚でもimaginalyでもありません。Realな数です。
量子論が示す確率もぼんやりとした霧ではなく、煙でもなく実体です。
半死半生の猫が信じられないのは分かりますが、太陽ではなく地球が動いているというのも信じられません。
By Dhatfield - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
太陽が毎朝東から上るように見えるからと言って地動説を否定できないように、物理的現実世界がはっきりしていて、情報空間がぼんやりして見えるからと言って、情報空間がぼんやりしていると考えてはいけません。
プラトンが言うように、現実こそが影であり、その後ろに情報空間が控えているのです。我々が観ているものは単にそのおぼろげな影です。
我々はこの世界に生まれ落ちて、この世界に適応するために、物理的現実世界をリアルだと思い込もうとしました。
私は幼い子供であったとき
幼い子供のように語り
幼い子供のように考え
幼い子供のように思いをめぐらした
ただ 一人前のものになった時 幼い子供のことはやめにした(コリント書13章)
しかし、もう大人になった以上は、情報空間が先に存在し、物理的現実世界はその写像であることを認めた方が良いのです。
その上で情報空間の歩き方をしっかり学ぶべきです。
情報空間では自分の思うままに動けるという幻想がありますが(「まといのば」もそんな期待をばらまいている戦犯なのでしょうが)、もちろん違います。
自分の思うままに動ける範囲で自分の思うままに動けるだけです。
狭い自分の部屋の中が宇宙だと思えば、その狭い空間を縦横無尽に動けるでしょうが、その先には広大な大海が広がっています。
一歩でも外に出るための方法が瞑想です(しかしハシゴであり、足場にすぎません)。
(なぜ苫米地博士は瞑想を不要というのかという回答がこちらです。すべての議論にはロジックがあるので、感情的にいちいち反応せず、論理を観る癖をつけることです)
読者はハシゴを登りきったあとでそのハシゴを取り払ってしまわなければならない(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題6:54)
*ウィトゲンシュタインの墓に飾られていたハシゴ。
瞑想は釈迦の苦行であり、修行であり、ツールであり、ハシゴであり、足場なのです。そしてとても便利な道具です。
そしてふと瞑想状態に入ったときに、あることに気付きます。
むしろ妙な感覚に囚われます。
デジャブ(既視感)というか、懐かしい感じがします
「ああ、これはすでに知っている」「馴染みの光景だ」という感じがするはずです。
サイモンとガーファンクルの「Sound of silence」の冒頭はこんな風に始まります。
Hello darkness, my old friend
I've come to talk with you again
やあ、むかしなじみの暗闇よ、ぼくの友だち、
やってきたんだ、またきみと話がしたくなって(斎藤和明訳)
*SIMON & GARFUNKEL - Sound of silence
我々はかつて瞑想の天才であり、瞑想を意識的にやっていたのです。
しかし大人になるにつれ、そのことを忘れます。
ゼロベースから母国語を習得し、筋肉がほぼゼロのところから直立二足歩行を習得します。
そのときの加速度的な進化成長のポイントはこの瞑想状態であり、脳の使い方です。
ですので、きっちり瞑想状態に入ると、我々は懐かし顔なじみに出会ったような郷愁を感じるのです。
すなわち瞑想は学ぶものではなく、思い出すものです。
記憶の底に封印されていた瞑想状態を思い出すものです。
思い出したときに、ふと口ずさんでみましょう。
♫ Hello darkness, my old friend
I've come to talk with you again ♫
というわけで、瞑想スクールはかなりハードに、かなり楽しく瞑想を学び実践できています。
初日にずいぶんと遠くまで移動できたので、楽日にはもっともっと広大な情報空間を手にしましょう!!
【メディテーション(瞑想)スクール 〜美肌瞑想から遮那、ヴィパッサナー、ラージャに至るまで〜】
【日時】 5月3日(祝・木)13:00~18:00
5月4日(祝・金)13:00~18:00
【場所】 まといのばセミナールーム(四ツ谷)
【受講料】 230,000円(PayPal決済可能です。請求先アドレスを記載してください。またPaypalでの10万円以上の決済はPayPalでの本人確認が必要です)
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