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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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そこで使われている音符♪を教えて下さい、そうしたらその曲が分かります(わけがない)

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音楽をメタファーに使うと、概念自体と概念のゲシュタルト(全体像)の違いが説明しやすいといつも思います。概念自体というのはここでは、単語なり重要語句というようなものです。キーワードなどと連想しても良いと思います。

概念と概念自体のゲシュタルトというのは、たとえて言えば数学の公式と数学の解法のようなものです。

「公式を教えて下さい」「プリンシプルを教えて下さい」「答えを教えて下さい」という叫びは痛切ですが、そのような視点からしか世界を見れないのであれば、永遠に望む結果は手に入りません。

気功技術とヒーリングもこれらと相似形です。「気功技術をください、そうすればヒーリングができます」というのは間違ってはいませんが、合ってもいません。「公式を教えて下さい、そうすれば解けます」というのと似ています。公式を見れば解ける人はもう十分に解ける人だけです。

概念(その名称)自体と概念のゲシュタルト(全体像)の違いというのは、なかなか理解されづらいものです。特にある重要語句には名前があり、その名称自体がしばしば定義を持ち、その定義からすべてを演繹できるような錯覚に陥るからです。間違ってはいませんが、合ってもいません。そしてしばしば誤解を生じます。

「一言で言えばどういうことですか?」とか「わかりやすく説明してください」という立場は悪くないのですが、何かを理解するということは自身の内なる変容(というとなんだかカルロス・カスタネダのようですが)が必要です。トマス・クーン的に言えば、パラダイム・シフトが必要です。大げさに言わなければ、視点の変換が不可欠ということです。自分が一歩も動かないで、すべてが無限遠点から近づいてくると夢想するのは自由ですが、それが叶う可能性は少ないと思います。まずは自分から歩み寄ることです。

「言葉に意味は無い」などと言うと、じゃあ辞書の存在意義は何なんだとすぐに掴みかかられてしまうので、小さい声で「意味は状況にあります」とあわてて付け加えます。

ただ音楽を文章や概念のゲシュタルトのメタファー(隠喩)として用いると、このことは俄然理解しやすくなるように思います。ある音楽を理解したいと思う人が、「そこで使われている音符を教えて下さい」とは言うことはないでしょう。使われている音符はドレミでしょうし、それぞれの音符一つ一つには意味はありません。使われている音符をコレクションしても、それは音楽になはりません。

その音符が適切に配置されて、連なることによって、そのつながりの中に我々は意味を見ます。

言語も同じです。言葉一つ一つは一つ一つの音符と変わりありません。そこには別段意味はないのです(極端な言い方です。意味が無いのではなく、逆に意味がありすぎるために一意的に決められないと言う方が正確かもしれません。「りんご」と言われたときにそれが何を指すのかは、文脈に依存し、状況に依存します)。
それがどのように連なるかによって意味が変わってきます。

これがアルファベットだとより分かりやすいのですが、文字も文章も所詮は意味のない26文字の記号の連なりです(アルファベットの語源はαβです。あるふぁー・べーたがアルファベットになったという意味では、日本語の「いろは」と同じです。「いろは」も「いろはにほへとちりぬるを・・・」の冒頭です。)。言語という意味では英語だけではなく、日本語も同じです。

新しいことを学ぶときは、そこで重要なのはどんな概念がどんな言葉が使われているかではなく、どのように論理が展開し、どのようなゲシュタルトが構築されているかです(いや、あわてて付け加えますが、寺子屋では逆に新しい名称は繰り返し口の中で転がして、何度も口に出すことで親しみやすくなるようにと言います。これは学習法の問題であり上記の議論とは矛盾しません。新しい友人と出会った時は、その名前に馴染むまでその名前を呼べばより素早く親しくなれます。多分)。

新しい曲を知りたいと思ったら、口ずさみながら身体を動かすといいかもしれまえせん。新しいことを学びたいと思ったら、同様に口ずさみながら身体を動かすといいかもしれまえせん。

そのとき小さな違い、小さな名称のささいなことにこだわらないことです。ベンジャミン・ザンダーがこう言っています。

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*画像をクリックするとベンジャミン・ザンダーのTEDレクチャーに飛びます。
(引用開始)

Like the bird who flies over the field and doesn't care about the fences underneath, all right?

(空を飛ぶ鳥のようなものです。彼らが眼下の垣根を気にするでしょうか?)
(引用終了)

ベンジャミン・ザンダーは、クラシック音楽は万人のためのものであるという信念のもと、クラシック音楽の魅力を伝えていますが、クラシック音楽を楽しめない理由の一つに一音一音にこだわってしまうことをあげています。そうではなく全体の絵を見て、長い長いライン(線)を見ることだと言います。空を飛ぶ鳥が地面にあるフェンスに目もくれないように、一音一音に躓かないほうが良いと。
(全体像を仮につかんでから、一音一音を揺るがしにせず、一つ一つの論理構造をゆるがしにしないほうがいいです。森を見てから、木を見ましょう)

ともかく全体像を自分なりにつかむ(その際に、まちがっても教師に「この視点で合っていますか」などと聞かないほうがいいでしょう。教師のほうが生徒より理解していないなどということはよくあります。そんな教師に自己の評価を委ねてはいけません)、自分がつかんだものをしっかり握り離さず、それを十分に振り回して、理解を押し進めることです。その理解(ゲシュタルト)はすこし突飛なほうがいいです。その理解を押し進めながら、読み進めていくと、どこかで壁にぶつかります(自分なりの理解が無い者には壁もあらわれません)。その壁がまた自らの理論(ゲシュタルト)を鍛えあげてくれます(もしくは壁がそのやわな理論を木っ端微塵にしてくれます。どちらも幸いです。壊れたらまた新しく掴めばいいので)。

音符にも一音にも意味はなく、同様に言葉も一意的な意味はありません。両者ともにそのつながりの中で意味が生じます。概念のゲシュタルト全体に音楽を感じ、風景を見ましょう!部分にこだわるのはその後でも十分に間に合います。


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