「数学が分かりません」「寺子屋の内容が難解すぎます」と言われると、いつも思うのは「タイミングが来るまで、心配せず待てば良い」ということです。
何事にもタイミングがあり、そしてそれは早くても遅くてもダメです。
完璧なタイミングが来るのを待つとは、熟れた果実を口にするのと同じことです。
早くても青くて硬く、遅ければ腐っています。
そのタイミングを見極めることです。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」とは旧約聖書の伝道の書の一節です(以前も紹介しました。泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり(伝道の書) 2017-01-21)(この一節をホーキング博士の葬儀の際にエディ・レッドメインが読んだそうです)
*自分を見ているようだったと辛口なホーキング博士が絶賛しました。
もしアインシュタイン・メッソドを美しく歌いあげるとしたら、この伝道の書の3章でしょう。
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。(以上、伝道の書3章)
まさに声に出して読みたいですね。
聖書は声に出して読むものです(というか、書籍は声に出して読むべきです。かつては列車の中で新聞を音読している人がいました。最近は見ないですね。黙読は良さげですし、速読にも有効ですが、どこにもコピーされず流れていってしまう可能性があります)。
「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」であり、そのタイミングを見極めることです。
たしかに、現状に安住してしまって茹でガエルになりそうなときに、
「じゃあ、いつやるか?
今でしょ」
と言うかけ声は有りですが、でも十分に闘って、十分に走っている大人には「今でしょ」は耳障りでしかありません。
タイミングを「待つ」のも大事なのです。
いまは「そのとき」ではないと見極めるのも勇気です。
*とは言え、このCM良いですね。音読というのはまさにその通りですし、数式は計算ではなく言葉というのもまさにその通りです。
「いつかやろうはバカ野郎」などと言いますが、「次に回そう」「いつかやろう」が最善手であることもあります。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
たしかに神さまは人の心に永遠を思うように思いを授けたのでしょうが、ただ、それを厳密に数学で記述するようになったのはカントール以降です。
カントールの無限集合論から今月の寺子屋はスタートです!!!(多分)
(先にネタバレをすると、カントールの無限集合論の肝はゲーデルの不完全性定理の定理の肝と同じく対角線論法です。
そのカラクリはシンプルです。
縦に無限に実数を並べたつもりでも、対角線上にある数字をひとつずらすと、その無限に並べた実数の中には存在しない新しい実数が生み出せるということです)
【リニューアル寺子屋第15回「ゲーデルの不完全性定理」】
【日時】 4月24日(火) 19:00~21:00(21:30まで質疑応答!22時半までやっていることも多いです(・_・;))
【場所】 東京・四ツ谷の「まといのば」のセミナールーム
【受講料】 3万円
【受講資格】 ブログ読者
【持ち物】 筆記用具と動きやすい服装
【お申し込み】お申し込みはこちらから。
*クルト・ゲーデル