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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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神は細部に宿る〜なぜ腸骨を豆状骨で強く刺激することが、ダイレクトに下丹田の鍛錬に結びつくのか?

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コルビュジエやフランク・ロイド・ライトなら名前だけでも知っていても、ミース・ファン・デル・ローエはあまり知られていないように思います。

ミース・ファン・デル・ローエはコルビュジェ、ライトと並ぶ近代建築の三大巨匠などとも呼ばれます。

しかし、彼の言葉であるless is moreやGod is in detailは人口に膾炙(かいしゃ)しています。

less is more は最近のミニマリズムブームで多少手垢がついた気もしますが、その精神は生きています。
そして、たしかにless is more(より少ないことがより豊かである)がless is bore(より少ないことは退屈だ)であることも多々あるような気もしますがw

誰がミニマルと判断するかに大きく依存する気がします。
(ちなみに僕自身は豊かさの指標は過剰さだと考えています。凡庸な見解ですが、アクセスできる資源が過剰であることからしか、上の系には行けないと思っているので。どれだけの情報を盛大に捨てられるかが、抽象度の階段を上がるためのポイントです)。




あ、そしてLess is moreで思い出すのは、友人のブログです!


Less is moreはともかくGod is in detailです。


「神は細部に宿る」というのは、子供の頃から幾度となく聞かされてきたと思います。

でも、この言葉は非常に納得がいく一方で、非常に奇妙でもあります。

神という抽象度の高い概念が、細部というきわめて具体的な場に存在するわけですから。


平たく言えば、高い抽象度と最も抽象度が低いとされる物理場や具体的な世界というのはダイレクトにつながっているということです。

天と地はつながっているのです。

抽象と具体は二項対立のように考えられがちです。

しかし、もっとも抽象度の高い世界はもっとも具象性の高い世界とダイレクトにつながっているのです。


メンターのメンバーから戸惑い気味のフィードバックをいただきました。

そのフィードバックを単純化して言うと、、、腸骨などの具体的な骨を触ることの効果は十分に理解していたけど、それがなぜ抽象的な大周天のような技術につながるのかが自分の中で整合性が取れない、と。

実践を重んじ、実践の中で自分の視座を見定めようとするきわめて真摯な見解です。


たしかに具体的なものと、非常に抽象的なものが直接に関係すると言われても混乱します。
骨盤と下丹田は月とスッポンのような離れた概念です。

具体と抽象を二項対立と考える、もしくは階段状(レイヤー構造)になっていると理解すると少し混乱するのです(初歩的な理解として、二項対立であったり、レイヤーであったり、階段と認識することは間違っていません。ただその先があるということです)。


現実は、まさにGod is in detailなのです。

細部なり具体性、具象性や、丁寧さなどと言ったことの中に高度な抽象的な概念(神)が存在するのです。


*大周天と言えば思い出すのは毘盧遮那仏。


たとえば腸骨を丁寧に触り、上前腸骨棘(ASIS)を痛いほど手首(の手根骨の豆状骨)で叩くと、下丹田が強く形成されやすくなります。

胸骨をきちんと触って意識し(思いの外大きい)、(思いの外長い)胸鎖関節を動かしながら鎖骨を意識し、肋骨を触りながら意識にあがると、中丹田は強烈に形成されやすくなります。

尾骨を触り、頚椎を触り(特に頚椎の一番を構成するあたりをしっかり意識に上げ)、背骨をなるべく触るようにするとクンダリーニは通りやすくなります


*チャクラもクンダリーニも具体的な臓器とみなして、鍛錬すると具体的に鍛えやすいのです。


具象と抽象は呼応しているのです。
(アルケミスト感覚と「まといのば」が呼んでいるものも、まさにこれです。呼応どころか同一と彼らは考えます。同一という制約はかなりキツイものです)

ですから、丹田などもそうですが、ふわっと丹田の鍛錬をしないで、きわめて具体的に気の球をつくって押し込んだり、丹田の座の解剖学を理解したり、触れたり、動かしたりすることが重要です。

目を閉じて、座るだけの瞑想でなんとかしようとするのは、我々には少なくとも1万年早いのです。
手を動かし、身体を動かし、よく見て、よく感じて、よく考えることが、本来の「瞑想」です(もちろん座っていてもそれが実践できる人もいます。激しく疲れる瞑想です)。


ヘーゲルは法の哲学の中で、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言います。


*ヘーゲル

単純化すれば、理性的=現実的、です。
抽象と具体はイコールなのです。

これを言い換えるならば、「神は細部に宿る」ではないかと僕は考えます。

「まといのば」では実践を重んじますし、理論の理解も重視します。
しかしこれは実践と理論という二項対立なのではなく、同じもののコインの裏表なのです。
理論なくして実践もなく、実践のない理論は画餅でしかありません。

そしてどちらも中途半端なのは、ゼロよりもひどいのです。
やるならば徹底的にやりましょう!

腸骨に痣(あざ)ができたら喜びましょう。足の裏の皮が剥けたら喜びましょう。
酷い筋肉痛は良い兆候です。

脳から火が吹くほどに考え、死んだように倒れるくらいに身体を酷使しましょう!!

そして非常に繊細に丁寧に実践とフィードバックを取りましょう。

そこに神は宿るのです。



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