気功をはじめたばかりのころは、無邪気な万能感に囚われます。
「結局、気を流せばいい」、「すべては大周天だ」と早合点(はやがてん)して、どんな問題も気を流せば解決と思いますし、大周天でIQも上がるし、身体も柔らかくなるし、抽象度も上がり、知識も入ってくる、、、、と無邪気に考えます。
もちろんこれは一面では間違っていないのですが、、、、、あながち間違っていないだけに深いスコトーマがあります。
たしかに、結局はどの気功技術も煎(せん)じ詰(つ)めれば、気を流すということで解決します。
気を流すをメインにして気の玉、浄化、封入を知れば、ほぼすべての気功技術の基本がわかったのと同じということに上達すればするほど気付かされます。
上級者になればなるほど、シンプルに気を流すということに収斂(しゅうれん)していくと感じます。
たしかに原因となるところに気を流せば問題は解決します。
しかし、問題はどこに流すかです。
原因が見つかるか、それが見えるかが問題です。
頓知(とんち)で有名な一休さんに対して、足利義満が挑戦するという逸話が伝わっています。
屏風絵の虎が夜な夜な抜け出してきて、暴れるので、虎を退治して欲しいと一休に言います。
屏風絵の虎を退治したり、捕まえたりするのは雲をつかむような話です。
それに頓知を試しているのは明白なので、一休さんとしても困りそうなものです。
しかしそれに対して、一休さんは「捕まえるので、虎を屏風から追い出して欲しい」と切り返します。
「気を流せば良い」という命題は屏風の虎のようなものです。
虎を屏風から追い出す方法が見つからない限りは、絵に描いた餅なのです(むしろ分かりにくい比喩だ)。
*「 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」とは一休禅師の詩です。
いわば気功は魔法のようなものです。魔法使いが杖を一振りするだけで問題を解決するように、不思議な呪文を唱えれば、解決するように見えます。
現代風に言えば、ボタンを押せば、自動的に商品が出て来る自販機(Vending machine)のようにすら感じます。
ですが、ボタンは無限にあり、どのボタンを押せばいいのか分からないとしたら?
その上に隠されたボタンも大量にあるとしたら、どうでしょう?
これが気功のパラドックスです。
杖を一振りすれば、すべての問題は解決し、不思議な呪文やマントラであっさりと克服され、ボタンを押せば自動的に問題が解決するように感じますが、その杖や呪文、マントラ、ボタンがどれか分からないのです。もしくは見えてすらいないのです。
ボタンを押せばいいことが分かっていても、そのボタンがどこにあるか分からないのです。
無邪気な言い方をすれば、気功の可能性は無限大だと思います。
しかし、その可能性を広げるのも制限するのも本人の知識の量や深さです。
気功を学び実践しているときは、自分の知識の限界が自分の能力の限界となることを意識すると上達が早くなります。
同様にゴール設定をするときは、自分の想像力の限界がゴール設定の限界となります。
紙に書けば実現するのことはたしかに事実だとしても、何を書くか、何を思い浮かべるかは想像力が決めます。
想像力は筋力のようなものです。日々、過負荷で鍛えている人が強くなります。一朝一夕で身につくものではなく、たゆまぬ鍛錬が実を結びます。
新しい知識が自分の気功の限界をまた押し広げてくれます。
知らなければ見えないことはたくさんあるのです。
見えなければ書き換えようがないのです(もちろん闇夜の鉄砲でまぐれ当たりも存在します。しかし人生はその意味では十分に長いので、まぐれ当たりは確率論の雲におおわれて平均へ回帰していきます)。
解剖学の素人が言うのは僭越なことを重々承知で言わせてもらうとしたら、同じことが解剖学にも言えるように思います。
「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」(ダンテ『神曲」地獄編冒頭)
解剖学という知識は身体において有効なマップ(地図)なのですが、地図はその土地ではないし、解剖学は生きた身体の解剖学ではなく、それは死体の臓器解剖からの類推に過ぎないという現実があります。
解剖学を生半可に学んでしまうと、すべてを筋肉の機能で考えたくなります。
それは悪いことではないのですが、盲点も巨大になります。
たとえば、肘を伸ばすためには、肘の伸筋を使うと考えたくなります。たとえば三頭筋を使って伸ばすということです。
もちろんこれは解剖学的にはイエスです。生体力学的にもイエスなのかもしれません。
では同様に肩関節の内転は本当に広背筋を使うのでしょう?
手を挙げた状態から、降ろすときに広背筋を使うでしょうか?
棚からモノを取って、手元に持ってくるときに広背筋を意識するでしょうか?
無意識に筋肉を使ってしまうというような議論ではありません。
たとえば、懸垂をするとします。そのときは肩関節は内転しますし、明らかに広背筋を使うでしょう。
(ちなみに「肘を曲げる運動だから二頭筋だな」とか考えて実践したら、、、二頭筋が壊れます。
というか、上がらないでしょう)
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しかし、同じように肘を降ろしてくる(肩関節内転)でも、挙げた手を降ろすときに、棚からモノを取って手元に持ってくるときに広背筋がどれだけ働くでしょう?
このとき、我々はむしろ広背筋など使っていません。肩関節外転の筋肉をむしろ使います。
平たく言えば、手を降ろすときには、手を挙げる筋肉を使っています。
なぜでしょう??
たとえばしゃがむことを考えてみましょう。英語で言うsquat(スクワット)ですね。
しゃがむ動作自体は屈曲です(股関節屈曲、膝関節屈曲、足関節屈曲)。解剖学的には伸展位からの屈曲には屈筋を使うのかもしれません。
では、しゃがむときにその屈筋たちを使うのでしょうか?
股関節と膝関節を筋肉で曲げてしゃがむのでしょうか?
(ここで厄介なのは、それらの筋肉は確かに使うということです)
股関節の屈曲の主働筋は大腰筋(腸腰筋)であり、次に大腿直筋(大腿四頭筋)が来ます。
そして膝関節はハムストリングスが主働筋です。
(厄介にも実際に大腰筋、大腿四頭筋、ハムストリングスは使います)
現象が正しいからと言って、理論の整合性が正しいとは限りません。
しゃがむのにそもそも筋力はいりません。
「解剖学の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗いスコトーマの森に迷い込んでいた。」
ということにならないためにも、解剖学に決定的に欠けている(いや、盲点になりがちなというべきでしょう)2つの力をいつも意識しておく必要があります。
2つの力と言っても、気の力とか精神力とかそういうことではありません。物理的な力です。
知っている人には当たり前過ぎるくらい当たり前のことです。
そして、この力は解剖学に深入りすればするほど見えなくなるように思います。
それは重力と脱力です。
そもそも挙げた手を降ろすのに、筋力は不要です。
重力に任せれば良いのです。
手を挙げる努力をやめれば、手は落ちてきます。
脱力です。
しゃがむのに筋力は不要です。脱力して立ち続けることをやめれば、身体は崩れ落ちます。
脱力して重力に委ねれば良いのです。
(ここでは重力と脱力が対のように描かれていますが、そして実際に対になることが多いのですが、脱力だけを重力と無関係に使う局面もありますので、あえて2つの別な力として記述します。そしてもちろん脱力自体は力にはなりませんが、脱力によって拮抗する別な力が表に出てくることを踏まえて、力として表現しています)
プリエで下がっていくときは、屈曲を意識しているのではなく、伸展を意識しています。
「上がるように下がれ」とよく言われます。これは禅問答のようですが禅問答では毛頭なく、実践的なアドバイスです。解剖学的にも生体力学にも正しいのです。
バーオソル(床バー)であれば屈曲・伸展は教科書通りでしょうが、地面に垂直に立つ以上は抗重力ということがいつも課題になります。
プリエを股関節屈曲と考えると、股関節屈曲の主働筋である大腰筋と腸骨筋を使おうと考えます。もしくは意識しやすい大腿直筋を使いがちです。
しかし上記の議論であれば、屈曲のために筋出力は不要ということです。
じゃあ大腰筋は何のために使っているのでしょう?
股関節屈曲のためではありません。
繰り返しますが、重力がいつも我々の身体にかかっているので、股関節も膝も力を抜けば、崩れ落ちます。屈曲します。
大腰筋の仕事は股関節を曲げることではありません。
骨盤の前傾のために大腰筋は使っています。
ですから、プリエで下がっていく局面でも、上って行く局面でもどちらも大腰筋は使っています。大腰筋が抜けることはありえません(抜けると怒られます)。
大腰筋が抜けると「座っている(sit)」と言われ、バレエでは嫌がられます。
他の筋肉も同じです。基本的には屈筋群は主働筋として働くというより伸張性収縮をしています。
降りていく局面では伸展筋群が伸張性収縮をしています。
伸張性収縮とはネガティブとかエキセントリックと呼ばれるものです。これもまた縁の下の力持ちです。
この感覚をわかりやすくつかむためには、上腕で力こぶをつくると良いかもしれません。
二頭筋を使って肘関節を屈曲させて力こぶをつくったあとに、肘を伸ばそうとしてみてください。
このとき二の腕であり振り袖の部分の三頭筋はどれだけ使ったでしょうか?
ほとんど使っていないと思います。むしろ重力に仕事をさせます。
我々がやるのは二頭筋を脱力するだけです。ただ完全に脱力すると危険なの、肘を伸ばすときは二頭筋の伸張性収縮を感じながら、重力と二頭筋の拮抗関係で伸ばします。
三頭筋はきっかけを与える程度です。
解剖学はきわめて重要ですが、骨格や筋肉からは盲点になりがちな2つの力があります。
しかしその2つの力、すなわち重力と脱力に盲目になると、どうしても本質からずれていってしまいます。解剖学のための運動になってしまいます。
足元を見つめ、巨大な地球の存在を感じましょう!
我々は重力によって縛られ、重力によって自由になるのです。
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気功の万能性をはばむたったひとつの原因と解剖学でスコトーマとなる2つの重要な力
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